- カルチャー
遠藤ケイのフォークロアを読む(アキママ読書日記②)
2013.12.10 Tue
滝沢守生(タキザー) よろず編集制作請負
×月×日 『遠藤ケイのキジ撃ち日記』
もう二度と帰らないつもりで家を出た。一週間ほどたち、真夜中に着信があった。
17歳になったばかりの息子だった。
「そんな人だと思わなかったよ。家族を見捨てるのかよ」
返す言葉がなかった。
息子は啓と名付けた。ケイと読む。遠藤ケイ。氏からいただいた。
「拝啓の啓にしろ、尊敬の敬にしろ、人におもねる意味を感じるな。気を付けないと」そういわれたのを覚えている。
人におもねる。自立自存しにくい人生を背負う、といいたかったのか。氏の本名は、敬の字を使うのだと聞かされた。
20代の後半と30代の初め、わたしは連載の担当編集者を務めさせていただいた。最初は隔月刊の企業PR誌で、もうひとつは隔週刊のエロ雑誌だった。わたしは、遠藤ケイという人物の父性に惹かれていた。
京都大学霊長類研究所教授で比較行動学者の正高信男は、『父親力----母子密着型子育てからの脱出』(中公新書)で、父親は「自然の媒介者」であるべきなのだという。同書でいう自然とは、広く外界のことで、子どもにとっては「闇」であり、歩み出すのは怖いこと。しかし、「闇」の何たるかを語り、じつは向こう側には楽しいこともあると知らせ、場合によっては歩み出した子どもに寄り添う。これが父性だという。父性を持ち得ない父親もいる一方で、母親でありながら父性を持つ場合もあるそうだ。
この世の「闇」は大きく深い。人は成長すると、じつの父親以外の父性を探すのかもしれない。自分では気が付きにくい「闇」に光を当て、「闇」の中へ誘う。それは思想の開陳でもある。「闇」の語り部たる思想家は、この世の父性なのだと思う。よき思想書は人生の伴走者となる。
遠藤ケイ。わたしは氏を思想家だと思っている。
わたしが足繁く遠藤家に通っていた頃に出た著作を語りたい。もう20年ほど前の著作になる。遠藤ケイ、50歳前後の作品。いまのわたしとほぼ同年齢である。
『遠藤ケイのキジ撃ち日記』(山と溪谷社)は怪著だ。“キジ撃ち”とは、山の符丁で野グゾのことである。氏が自力で房総半島南部の山中に建てた丸太小屋には厠がなかった。もよおしたらスコップ片手に外へ出て茂みでするのである。
雨が降ろうが雪になろうが、野に脱糞。むき出しの股間をすり抜ける風にフグリを揺らしながら考える。日々のつれづれなる思考を、日記形式で春夏秋冬まる一年間つづったのが同書。遠藤ケイの思想がもっともよく著されていると思う。
大上段に語るのではない。野グソしながらのモノローグ。
ある日は、〈曇り。早朝四時起床。五時過ぎ野糞。気力が湧かない。今日も無為の一日。〉と沈み込み、またある日は、〈現代人は環境に対して贅沢になり過ぎている。大切なことは、どんな環境の中でも自分の生き方ができるということだ。その発想に立ったとき、はじめて周辺の環境が見えてくる。積極的に生活の中に取り込むことができ、かけがえのない環境に転化することができる。この境地に達した人間はどこでも暮らせる。〉と急に怪気炎を吐く。
思想とは、生活の体系であり、政治、社会における主義主張は、思想の一部であってすべてはない。広く生活体系を見据えた個人のあり方が、まず思想である。遠藤ケイの思想をひとことでいうなら「土着主義」となるのではないかと思う。
野グソをしながら〈この境地に達した人間はどこでも暮らせる〉と吠える人の思想を、土着とするのはおかしく思われるかもしれない。確かに、土着とは、長年の定住という土台の上に成り立つが、移住を繰り返す暮らしに土着はないかといえば、そうではない。土着の遊牧民というのは、現に存在する。ノマディック・ネイティビズムは堂々と成立し得る思想なのだと思う。
×月×日 『熊を殺すと雨が降る』
遠藤ケイは新潟県三条市の曲尺職人の家に生まれ、東京暮らしを経て房総の山中に移住した。わたしが訪ね始めたころ、すでに房総暮らしは20年になろうとしていたが、その何年後かに新潟県の下田村の山中に居を移された。もともと根っことは分断されていて、その後も腰は落ち着けるが定着はしない。定住を超えた土着、土に着くことをめざしたのである。
そのための方法論は、食と住とを周囲の自然の恵みから直接得ることだった。なかなかすべて自力得るというわけにはいかなかったようだが、できるだけ得ようとし、とりわけ住の部分は自力で構築した。遠藤ケイは、さまざまな生活の道具を手作りし、ついには家まで建て、鍛冶にも挑んでいった。自身がいうところでは、楽天的な性格でうまくいかなくてもくよくよしない。むしろ大らかに構え、自身の失敗を酒宴の肴にするかのごとく、笑い飛ばす。暮らしぶりをつづったエッセイは数々あるが、それらの作品に通底するのは失敗の書きっぷりのよさだと思う。変に自身を道化のように表現するのではなく、真剣に挑んでの失敗をありのままに書く。真剣に挑んだ果ての失敗だから可笑しい。
生活のあり方で手本のようにしたのは、実際に僻村にたんたんと暮らす無名の人々だった。そして、そんな人々に接近するための地図は民俗学だった。山人たちの民俗文化=フォークロアを丹念に調べ歩いていた。これは現在も続けている。
『熊を殺すと雨が降る』(ちくま文庫)は、遠藤ケイの山人民俗学のひとつの極みに到達した作品だと思う。同書は、「山の仕事」「山の猟法」「山の漁法」「山の食事」の4章構成で、各賞はさらに「杣」「漆掻き」「熊狩り」「筌漁」「山菜とキノコ」といった見出しが立てられ、さらに細かな小見出しが立てられ、小気味よい短い文章が続いていく構成。小気味よいが、変な抑揚はなく、実際に訪ねた山の暮らしがむしろ淡々と語られていく。それがかえって凄みを感じさせるのである。
注目すべきは、マタギなどの例外的な題材のほかは、ほとんど地域が特定されていないところだと思う。同書で取り上げられている「山の暮らし」は、もちろん日本の山に寄り添って生きる人の暮らしである。しかし、どこだかはわからない。同書で遠藤ケイは、どこの山といわず「日本の山の暮らし」を記そうとした。どこかの山にある暮らしではなく、日本のどこの山にもあった暮らしとすることは、実際に広く山暮らしを見ていなければできない。そして、これぞ日本の共通、といい切れる自信がなければできない。この時期までに、氏は経験の果てに自信を不動のものにしたのだろう。
同書は、1993年に岩波書店から『山に暮らす----失われてゆく山の民俗学』として出版され、その後、表題を『熊を殺すと雨が降る』に改めて山と溪谷社から出版し直され、後に表題をそのままにちくま文庫となった。極まった書物は、長く読み継がれていくような形式を取っていくものである。わたしが持っているのは岩波版。B5正寸の大判で、絵描きでもある氏のアングラ漫画を感じさせるモノクロ画が堪能できるつくり。ただ、副題は「失われていく山の民俗学」ではなく、「失われていく山のフォークロア」とすべきではなかったのか、といまになって思う。
×月×日 『おこぜの空耳』
フォークロアは、民俗学そのものを指す場合もあるようだが、元来は民俗文化、民間伝承と訳される言葉で、これを研究してきた学問が民俗学だという流れでややこしい。この世界の書物は数々あるが、わたしの触手が動くのは、時代や世相を鋭い切り口で切って語るもの、そして、民俗文化にどっぷり浸かって自らフォークロアの継承者となって語るものだ。遠藤ケイの作品群は後者である。
前の2作と同時期に出版された『おこぜの空耳』(かや書房)は、山に起こった怪現象をベースにして山人たちの山に対する畏怖と畏敬と打算がない交ぜになった精神世界を描いた作品だ。表紙に「願わくば之を語りて平地人を戦慄せしめよ」と添えられる。これは民俗学の泰斗、柳田国男が東北の妖怪伝承をつづった『遠野物語』に添えた一文である。「おこぜ」は海の魚のオコゼである。山人は、狩りに出かけるとき山の神にオコゼを供えるという。そのオコゼが聞いたか聞かぬか、ひょっとしたら空耳だったのかもしれない話。舞台は埼玉県秩父地方の最奥、中津川の最上流。そこに暮らす人々が、異郷からの訪問者である遠藤ケイに、自身が体験した怪現象をそっと語る。全6話。まるで短編小説集のようだ。収められているのは、こんな話だ。
集落一の魚取りの名人の家に女の子が生まれる。その子は感性が敏感で、何気なくつぶやいたことが現実に起こったりする。魚取りも妻も、その都度驚かされながら大事に大事に育てる。しかしある夜、髪の毛を逆立て目は血走りわけのわからぬことを口走ったかと思うと、一目散で家を飛び出した。そして、それきり戻らなかった。
神隠し……。その後の魚取りは魂を抜かれたがごとく暮らすが、ふとあるとき、思い立って沢の最上流にある淵に向かう。そこには主が潜んでいる。巨大イワナだ。今日こそこいつを捕る。そこに怪現象が起こる。まず山から石が飛んでくる。人影はない。驚いている魚取りが淵に目を向けると女の子用の下駄が。それは正しく愛娘が消えた晩に履いていたもの。我を忘れて魚取りは淵に踏み入る。そしてそこに主が表われる。背に娘を乗せて……。娘の身に起こったのは殺生を繰り返してきたものに対する祟りなのだろうか。わけのわかぬまま魚取りは、起こったこと見たことを遠藤ケイに淡々と語る。
同書には、フォークロアの語り方の実験が随所に見られる。
「なかなか怖くならないんだ」
と、氏は書き進めているときにこぼしていた。しかし、同書が出た後すぐに読み、わたしは続編の執筆を何度も懇願した。怪現象に対する間合い、怪現象の語り手との距離感が絶妙で、理屈は消え落ち、怪現象と山人の生き様だけがある。遠藤ケイのフォークロアにおける別の頂点を見た気がした。あれからずいぶん日がたったが、『おこぜの空耳』の続編は出ない。
新潟県下田村に拠点を移した後もわたしは何度か訪ねたが、ここ数年はご無沙汰してしまっている。ここで語った3作を書いていたころの氏の年齢に達し、どんな顔で会いにいけばよいのか。まだ父性を求めるのか。もうすぐ70歳を迎える遠藤ケイ。人づてには、いまも旺盛に独自の活動を続けていて、いまだ衰えを知らないと聞いている。土着主義の行方、フォークロアの進化をこの目で確かめなければ。
(文=藍野裕之)
あいの・ひろゆき
1962年東京都生まれ。広告制作会社、現代美術のギャラリー勤務のあと、フリーの雑誌記者に。『サライ』『BE-PAL』『山と溪谷』などの雑誌で取材と執筆に携わる。自然や民族文化などへの関心が高く、日本各地をはじめ、南太平洋の島々などへも足をのばし、ノンフィクションの作品のための取材を重ねている。著作に『梅棹忠夫ー未知への限りない情熱』(山と溪谷社刊)、『ずっと使いたい和の生活用具』(地球丸刊)などがある。