- カルチャー
今福龍太のトラベローグを読む(アキママ読書日記③)前編
2014.01.09 Thu
滝沢守生(タキザー) よろず編集制作請負
×月×日 古い原稿
年末は楽しい忘年会が目白押しだった。そのうちのひとつ、長いつき合いの編集者が開いてくれたホームパーティー。気の置けない老若男女。いい気分になっていると、パーティーのホストである編集者がにじり寄ってきて、古い雑誌を開いた。そこにはわたしの原稿があった。
あれは、20世紀最後の年のことだ。いまはなき雑誌『Outdoor』(山と溪谷社)2000年11月号の特集「夢の放浪者」で、わたしは巻頭記事を依頼された。非常に光栄なことだった。
できあがった原稿の書き出しはこうである。
〈放浪――。この旧時代的なサビついたロマンチシズムの世界に追いやられてしまった旅に、ふたたび輝きを与えられるだろうか。〉
当時のわたしは38歳。気負いが出ていて、しかも“放浪者”という言葉から醸し出されるロマンチシズムに対して反抗的だ。あの頃の苛立ちが蘇ってくる。
当時の『Outdoor』編集部には、まだ団塊の世代が上層部にいた。彼らはアウトドア・カルチャーを草創期から支えているのだという自負があり、手強かった。やがて雑誌は思想化した。ただ、それは時代に寄り添っていたわけではなく、むしろ、1960年代から70年代初期にアメリカで起こったカウンター・カルチャーへの憧憬を土台にした、カリスマ信奉主義的なアナクロニズムに陥っていた。わたしには、そう思えた。わたしを特集巻頭の書き手に抜擢してくれたのは、わたしよりずっと若い編集者だ。上層部に企画を通すのは苦労したはずである。この原稿を書かせてくれことに、いまさらながら感謝する。
アウトドア雑誌が思想化していくのは悪かろうはずがない。そもそもアウトドア・カルチャーは、その始まりからして暴走する現代文明へ抵抗していく思想を内包していたはずである。その原点に立ち返り、過去をたどっていこうという企画には、意欲的なものがたくさんあった。しかし、ことを急いだのか、あるいは焦ったのか、丁寧さを欠いた。アナクロニズムの原因は丁寧な系譜論の欠如にあったと思う。過去と現代の蝶番がないと、過去の話は懐古趣味的な過ぎた日々への賛美にしか聞こえない。
団塊の世代の思い出話など、クソクラエ、だ。そんな激しい憤りは、雑誌『Outdoor』編集部にいた団塊の世代の出版人への近親憎悪だったと思う。好きだ。だからしっかりしてほしい。それと、わたしがわたし自身に苛立っていたからでもあった。
わたしは、クライミングもカヌーも駄目だ。しかし、自然を愛していたし、いまも自然に身を置きたいと思っている。20代の頃から、旅に生き、旅で得た言説を書き、旅人を描き、大げさだが旅に死にたいとも思ってきた。現実の生活は理想にはなかなか近づかなかったが。
一組のテントとシュラフ、小さなストーブと安いコッフェル、そして400ccの単気筒かピックアップトラック、あるいは自転車か徒歩。アメリカの音楽と文学とファッション。博物図鑑と人類学の書。そんなアウトドア・ライフもあっていいだろう。そう思い、アウトドア雑誌の制作スタッフになりたかった。
やがて、その夢はかない、取材をきっかけにした旅があり、出会いがあった。ポリネシアの老考古学者に魅せられ、島々をいっしょに旅した。京都学派の老探検家とモンゴルの草原をいっしょに歩き、口移しで思想を伝授された。しかし、そうした旅人との出会いや旅が、いつになっても納得のいく言葉にならない。放浪者になりたい。放浪の書き手になりたい。でもなれない。なりたい自分は夢なのか……。苛立ちのなかで「夢の放浪者」という特集のタイトルを聞いて、わたしは冷静ではいられなかった。これを冗談半分にすます奴など、クタバレ、だった。
あれから14年がたった。何とか苛立ちの日々はやり過ごせた。とはいえ、本質的なところは何も変わっていない自分がいる。期せずして当時の自分の原稿を読むことになり、もう一度、批判を請いたい。そんな気持ちになった。ここに、多少の解説をくわえながら古いわたしの原稿をまな板に乗せ、ふたたび問うてみる。
あなたは、夢を現実にしますか? それとも夢はかなわぬものとあきらめますか?
×月×日 『荒野のロマネスク』
わたしは、雑誌『Outdoor』2000年11月号の特集「夢の放浪者」の巻頭を担当することになり、どうしても会いたい人がいた。今福龍太である。わたしより7歳上だから、会ったときは45歳。いまはほぼ還暦である。団塊の世代とわたしのちょうど中間。わたしは今福龍太によって団塊の世代との橋渡しをしてもらったのかもしれない。彼の横顔を、『Outdoor』には、こう書いた。
〈若い時期にアフリカ、南ヨーロッパに渡り、それ以後、カリブ海を含んだアメリカからブラジルにかけた広い地域を旅した。そして、彼はいまなお移動を続け、最初に届いたEメールはブラジルのサンパウロ、指定された会談地は北海道の札幌だった。
社会的に通りのいい説明をすれば、彼は文化人類学者であり、大学教授である。しかし、それだけでは、彼のほんの一面しか伝えていない。かつて作家の沢木耕太郎氏は、彼を「移動しながら考える文章家」と称した。
今福氏の文章は人類学の論文にしろ、エッセイにしろ移動しているライブ感覚があった。それはテキストのなかでも“旅”しようという旅の記述の実験だった。さらにときおり描く放浪者は古い時代のロマンを引きずりつつ、新しい輝きを放っていた。〉
取材した当時、今福は札幌大学教授だったが、その後は東京に拠点を移し、東京外語大学教授になった。そして、トカラ列島、奄美群島、沖縄、八重山諸島を旅し、大きな仕事を成し遂げていった。
今福は湘南で育ち、高校時代は山岳部で盛んに日本の山々を登っていたという。「山と溪谷社」の名を告げると、「高校時代に雑誌『山と溪谷』を愛読していました。懐かしい」そう言って、取材を快諾してくれ、札幌大学の研究室を訪ねると、はげ上がった顔にヒゲをたくわえた顔をほころばせて待っていてくれた。そのとき彼は、ジーンズに白いコットンのシャツを着て、肌寒かったからだろう、アメリカ南西部からメキシコにかけた地の先住民が織る、独特の紋様のチマヨ・ベストをはおっていた。そして、わたしの問いに真剣に向き合ってくれ、気持ちよさそうに語り始めた。
「純真な旅人でありうるなら、旅をしていること自体に100%の充足を感じ、旅の余韻を引きずりつつも、自分のホームに帰着することで旅を完結させることができるでしょう。
ひとつの旅が、出発地にふたたび戻ったことで終わるなら、それはある意味で幸福な旅でしょう。その意味で言うと、僕は、不幸な旅人なのかもしれません。旅していることに充足感を感じ、帰ってきたことで旅が完結するというふうに、ある時期から思えなくなってしまいました。
旅から日常に戻っても、旅の時間や空間というものに、全面的な決着をつけることができなくなって、そうなれば当然、日常が混乱してきますね。で、その混乱をやむなく引き受けた。すると、他人からは社会復帰できない変な奴に見えたらしく、どんどん孤立していきました。
そんな経験があって、旅にうまく決着をつけられない部分は何かと考えたときに、結局、それが言葉として固まっていく何かだったんです」
一般的に紀行文学は、旅を時系列に従って、その旅人が見たもの、感じたものをつづっていくパターンが、最も多い。しかし、実際に旅しているときの旅人の思考は、旅の経路どおりには進まない。行きつ戻りつ、あるいはまったく違う方向へと“旅”をしてしまう。また、そうした感覚が頻繁に起こる旅ほど、放浪という状態だろう。
文章家としての今福の始まりは、肉体から乖離してしまった、精神の放浪をもすくい取る言葉を見い出すことだった。
そうやって始まった今福への取材の途中で、彼は見返しに署名をして、わたしに著作を一冊進呈してくれた。今福の処女作『荒野のロマネスク』(ちくま文庫)である。
今福は、東京大学を卒業するとテキサス大学大学院に進んだ。そしてネイティブ・アメリカンとともにアメリカ南西部の荒野を彷徨った。ネイティブ・アメリカンのメディスンマン、渡されたペヨーテ、それを身体に入れて見た幻覚、焚き火にあたっているとコヨーテが近づいてくる。そんな体験の果てに、今福は国境を越える。
「初めての本はメキシコでの経験を書いたものですが、この本を書こうとしたとき、“トラベローグ”ということを意識しました。これは、紀行文、エッセイ、学術論文、果ては詩まで、旅を契機にした文章のすべてを指すものです。僕は自分の旅を移動の時系列に従ってつづることに違和感があったんです」
トラベローグとは、トラベルとダイアローグを合わせて生まれた造語である。旅の言説とでも訳せばいいのだろうか。単に紀行文として旅をつづることだけではなく、旅によって得ることになった文章や語りなどの言語表現のすべてを意味し、また、そうやって表現を広く捉えることで、形式的になってしまった旅の記述方法を変えていこうという言語表現運動をも意味している。発祥はイギリスらしい。
「たとえば、僕にはメキシコにいても、メキシコにいるのか、サンパウロにいるのかわからなくなることがあったんです。ひとつの場所を経験するとき、必ずその裏側で別の場所の記憶を再体験していく……。そんな経験を繰り返すうちに、場所そのものも、本来そこにはなかった別の個性を持ち始めているのではないか、と気づき始めたんです。そこで、旅の新しい記述方法が必要に思えてきました。おそらく複数の場所の要素がたたみこまれた場所と、複数の場所の記憶をたたみこんだわれわれの体が出会うのが、現代の旅なのでしょう。
となると、インドにインドを求めていくこと自体が、もはや幻想でしかないことになります。
また、今のアフリカ音楽を聴いて、伝統的な音楽や非常にピュアなアフリカ部族社会を重ね合わせるのは、すでに幻想的な行為でしかないのだと思います」
『荒野のロマネスク』で今福が行なった「旅」の文章表現は、わたしがそれまで出会ったことがないものだった。同書は、肉体だけではなく、精神の放浪も描いていたのである。
(後編につづく)
(文=藍野裕之)
あいの・ひろゆき
1962年東京都生まれ。広告制作会社、現代美術のギャラリー勤務のあと、フリーの雑誌記者に。『サライ』『BE-PAL』『山と溪谷』などの雑誌で取材と執筆に携わる。自然や民族文化などへの関心が高く、日本各地をはじめ、南太平洋の島々などへも足をのばし、ノンフィクションの作品のための取材を重ねている。著作に『梅棹忠夫ー未知への限りない情熱』(山と溪谷社刊)、『ずっと使いたい和の生活用具』(地球丸刊)などがある。