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今福龍太のトラベローグを読む(アキママ読書日記③ 後編)

2014.01.15 Wed

滝沢守生(タキザー) よろず編集制作請負

×月×日 『クレオール主義』

 わたしが最初に手にした今福作品は、『荒野のロマネスク』ではなく、『クレオール主義』(青土社)だった。『荒野…』はエッセイに近いように思えたが、『クレオール…』は、学術的であり思想的であり、難解だったが濃密で充足した読後感を得た。わたし自身もクレオール=混血ということに関心が強かったからだと思う。『Outdoor』には、こう書いた。

 〈近代以降、われわれは、遠隔地への移動手段を日増しにスピードアップさせてきた。また、われわれは情報伝達手段も技術進歩させ、遠隔地の事情を知る術を獲得していった。
 これによって、旅すること自体が容易になり、日々旅人から情報がもたらされ、また、メディアを通じて旅をしなくても遠隔地の事情を知るようになっていく。その結果、かつてあった絶対的な未知の領域が失われ、旅は既知の追体験という枠のなかから出られなくなっていった。
 もう一方で、移動手段と情報伝達手段の変化は、場所自体にも変化をもたらした。それまで、一定の閉鎖地域にあった他所とは異なるその地域の個性が、人が移動したり遠隔地の情報が流れることによって希薄になったのだ。希薄になったというより、多層的になったというべきかもしれない。
 こうした、ひとりの人間を帰属国家や帰属民族というカテゴリーでは捉えられなくなった様子、また、ひとつの地域がほかの地域の要素を内包するような混沌状態、それを今福氏は「クレオール」と呼ぶ。
 この言葉は本来、混血を意味するものだが、今福氏は、異人種、異民族同士の混血という意味のほか、人間の精神や土地の個性が多層的になった状態にもこの言葉を当てはめた。それは、人や場の個性が境界を越えて混ざり合う領域に、未知を発見したことにほかならない。そして彼は、自らそこへ旅立った。〉

 今福は、ヨーロッパにもアメリカにも通じていた。そして、アート、あるいは文学を鍵にして独自に放浪者の系譜を理論立てていた。

「20世紀を通じて、旅人のモデルは大きく変化していきました、そのなかで、放浪者といえる自由な旅を求めていった旅人は、3つ存在したと思います。
 ひとつは、コスモポリタンといっていいと思いますが、今世紀初頭に西洋のブルジョア階級から出た、さまざまな知的な欲求を抱えた人々です。多くは芸術家(オーストリア=ハンガリー帝国の首都ウィーンから出た、画家のエゴン・シーレ、小説家のフランツ・カフカなど。あるいは、その後継者ともいえるパブロ・ピカソ、ポール・ゴーガン、ジャック・ロンドンなど)で、彼らは国境を気にせず移動することで、古い貴族意識を切り離して自由を求めたんです。世界のあらゆる場所で自分を表現していき、人によっては訪れた土地にそのまま住み着いてしまいました。
 当時はまだ旅するのにお金がかかりすぎて、庶民は旅することができません。ですから、その頃、彼ら以外に旅をしていたのは軍人や宣教師でした。
 ところが第二次世界大戦後になって、経済的な条件が整い、ごく一般の人たちの中から放浪者たちが出現してきます。それが’50年代から’60年代に現れたビートニク(『路上』のジャック・ケルアック、『吠える』のアレン・ギンズバーグ、『亀の島』のゲーリー・スナイダーなどと感性を共有した同世代の若者たち)やヒッピー(『禅とオートバイ修理技術』のロバート・パーシグなどの作家とその読者たち、『緑色革命』でチャールズ・ライクが描いた若者たち、グレイトフルデッドやジャニス・ジョプリンなどのミュージシャンとその信奉者たち)です。
 彼らは20世紀の重要な旅人のモデルでしょう。カウンターカルチャーというかたちで、人間を縛りつけていた制度的な絆をたたき切って、新しい意味の自由を求めようと考えた。そして、インド、ネパール、日本の京都、バリ島、あるいはメキシコといった場所を聖地とし、そこには必ず彼らの精神主義を満たすドラッグと宗教が同時に存在しました。
 こうして20世紀の半ばに非常に精神主義的なモチベーションを持った旅人が、ビートニク、ヒッピーというかたちで生まれ、さて、今、だれが世界中を動きまわっているでしょうか。
 もちろん、観光客はいます。僕自身、自分が立派な旅人とは思いません。目的地までは最短距離の航空機に乗るなど、旅のルートは既成の観光的なかたちで成立しているルートを使わざるをえません。旅をするときに観光客となることから逃れられないということをわかったうえで、なおかつ旅に出たときにどういう旅が可能かを考えました。
 コスモポリタン、ビートニク、ヒッピーと続いてきた放浪者の系譜に組み入れられるのは、どんな旅人か。そして、たどり着いたのが、移民や亡命という、社会的、あるいは政治的なモチベーションによって移動を余儀なくされ、自分の住みかを絶えず変えている人々です。
 彼ら自身は旅をしているなどとはけっして思っていないでしょう。しかし、彼らの持っている移動感覚が、世紀末に登場した3つ目の大きな旅人のモデルだと思います。彼らの世界に新しい物語が隠されているように思えてなりません」

×月×日 『移り住む魂たち』

 やはり、20世紀の初めはヨーロッパのブルジョアの時代だった。それが第二次世界大戦を経て、覇権はアメリカ市民に移る。先鋭的な旅人は、いつの時代も文化的に爛熟期を入り、経済的も発展した都市に出現するようだ。

 21世紀なって10年以上がたったいま、亡命というと、アメリカの軍事機密を暴露し始めた若きエリートの顔が浮かぶ。しかし、日本に生まれ育っていながら、日本という国家に帰属意識を持たず、さらに意図的に国家に税金を払わないという生き方は、どこかの国に亡命したことと同じである。あるいは放浪の旅の只中にあるのかもしれない。

 今福の『移り住む魂たち』(中央公論新社)には、アメリカに亡命、あるいは不法入国した人々の話が記されている。主に東欧、キューバ共産主義国家から脱出した人々だ。たとえばクロアチアからアメリカに亡命し、ハワイに住む男である。『Outdoor』2000年11月号の取材の段階で、わたしは『移り住む…』も読んでいたので、今福との語らいはそっちに進み、わたしは次のように原稿を書き進めた。『Outdoor』にはこう書いた、

 〈亡命者、移民……。彼らは出身地からは出たにしろ、基本的に定住地を探している人々のように思える。旅はとどまるか移動するかであっても、けっして定住地を探すものではない。だとすると彼らは旅人とはいえないのではないだろうか。〉

「現代においては、もはや旅と定住は反対概念ではありません。旅と定住は複雑に同居しているものでしょう。つい先頃まで滞在していたブラジルで、おもしろい経験をしました。サンパウロ州の内陸にある古い日系人コミューンで、その長老に会ったんです。彼は数十年農場を出たことがないにもかかわらず、世界に対するビジョンがアクチュアルで正確でした。もちろん、テレビや新聞があるのですが、彼の認識は、そういうものを再構成して持ちうる紋切り型の世界観よりヴィヴィッドで、しかも非常に批判的なんです。どうしてそうなれたのかといいますと、彼のコミューンは特殊で、世界各地から社会学者や人類学者、ジャーナリスト、作家といった人々が訪ねてくるわけです。そんな人々から世界中のヴィヴィッドな情報がもたらされる。旅をしなくても長老はアクチャルな世界を知ることができたんです。
 逆に、世界を日々移動するビジネスマンがいます。彼らはラップトップさえあればどこでもオフィスにでき、日常をいつも引きずっていて、思考はまったく移動していません。
 その点でいえば、移民や亡命者は定住地を探していながら、どこにも定住できない人々でもあると思うんです。彼らはもといた土地を脱出、あるいは追放されて出てきました。そして、新しい土地に住むようになったのですが、どこにも交わらない移動の只中にある人々です。
 その旅せざるを得ない感覚は、僕自身の移動感覚に近いのではないかと思いました。確かに僕自身は亡命者でも移民でもありません。しかし、僕が旅で感じているリアリティは、もはやヒッピーのものではない……。
 日本人のなかには移民した人々はいます。しかし、日本は政治的な亡命者を輩出するような政治体制ではないといえるでしょう。このようななまぬるい環境で、亡命という意思には無頓着になっていますが、その一方で“日本人であれ”という強迫観念を植えつけるような締めつけが強まっています。そのため奇妙なほど外から入ってくる人を区別したりね。
 そんな日本人の多くが持っている浅薄な縛りを断ち切り、ちがう環境のなかでちがう自分を新たにつくっていくことも、一種の亡命といっていいのではないでしょうか。亡命は政治亡命者だけの特権的なものではありません。
 亡命者、移民、クレオールの人々は、放浪の新境地をめざした先鋭的な旅人であり、旅の新境地をめざせばめざすほど、われわれの移動は、どんどん亡命的になっていくでしょう」

 〈今福の話が進んでいる間、頭の中に出没していのは「アイデンティティ」という言葉だった。「日本人であれ」と問われたところで、それ以前に日本というもの自体が何なのか答えに窮してしまう。しかし、「自分は日本人なのだ」と思うことで何となく安心する自分がいるのも事実である。
 国家とか民族といった怪物は、いつも強烈な違和感と同時に奇妙な安心感を与えるもののようだ。亡命あるいは移民とは、そうした違和感と安心感からの脱出であるが、帰属するものを失うということには、一抹の恐怖感を伴う……。〉

「アイデンティティという考え方は、自己同一性と訳せますが、これは近代以降の人間のいちばんのオブセッション(執着)です。自分が一貫した主体でなくてはいけないというプレッシャー、あるいは強迫観念によってどれだけ自分自身の可能性を限定してきたことでしょうか。
 旅を通じて、自分自身をもっと解放してみたらどうでしょう。僕は、アイデンティティに縛られずに分裂した生き方をしてみたいと思っています。それは、いいかげんな人間になるというのではありません。一貫した自己を持たなければならないという強迫観念から、いったん自分を解放してあげようということです。それによって、もっと寛容で大らかな自分のあり方を試してみたいと思います。
 未来のアイデンティティは何かと、相変わらずそこに自分を囲いこんでしまわない。近代以降、アイデンティティに縛られずに生きることで得られる快楽や興奮を、まだだれも経験していないわけですよ。だからこそ、そこへの旅が意味を持ちます。
 旅のひとつ効用は、言葉によるプレッシャーから外れてゆくことでしょう。相変わらず日本人は西洋語圏に行くと、ある種のコンプレックスを感じてしまいます。自己のアイデンティティが強いと、日本語というアイデンティティも強くなって、別なアイデンティティに入っていけないのです。僕は、そうしたことより、言葉自体に限界を感じます。旅先で出会った相手とコミュニケートできるかどうかを考えたとき、言葉が重要でない場合がありませんか」

 こうして今福龍太へのインタビューを終え、それをもとにわたしが原稿を書いた。

 文章は少し難解だ。今福の話も難解さは否めない。ただ、文章や話の難解さは、マイナス評価すべきものではない。内容によっては、平易平明に書いたり話したりすることにより、逆に伝わりにくくなることがある。わたしの古い原稿の最大の欠陥は、苛立ちがもろに出てしまっているところにある。

 ビートニクやヒッピーは精神主義への憧憬によって世界各地に聖地をつくった。しかし、亡命者、あるいは移民、クレオールは聖なる場所を持とうにも持てない人々だ。ただ、彼らは旅そのものをねぐらにすることに成功した。

 これは、記事に添えられた写真のキャプション。写真は佐藤秀明。年代をへた写真から借り受けて掲載した。借りに行ったとき、「放浪者なんて、少ししょぼくないか」と言われたのを覚えている。

 放浪とは、肉体を移動し続けることであり、また精神を移動し続けることでもある。

 わたしは今福に会った当時、さかんに肉体を移動し続けていた。だが、精神を移動させ続けていたと問われると自身がない。その後の10年ばかりは日本にいることが多かった。不思議なことだが、肉体の移動範囲は狭まったのだが、精神は広い範囲を移動した。そうした時を経て、これからどうしようか。わたしの古い原稿に、そのヒントがあった。

 かつて定住によってしかなしえなかった、人、自然、都市との濃密な関係を、移動のなかで実現し、旅に生息する。……

 いま、わたしは夢見ている。新しい旅に出たい、と夢に描いている。やはり、わたしは夢を現実にしたい。どうしてもしたい。子どもの頃に大きな夢を描いたが、年齢を重ねると夢もしぼんだ、と語る人は多い。どうもそれには賛成しかねる。子どもの頃の夢は大きいが深くはない。年齢を重ねていきながら、大きさをそのままに、夢に深さを加えていくような人生を歩めないか----。

 今年、わたしは52歳になる。どうやら肉体は健康で肉体を移動させる体力もあるようだ。わたしの精神はこのところ苛立つことがない。無邪気に旅していた若き日に戻ったような感覚がある。何か、背負っていた重いザックを下ろしたような感覚だ。身体が軽いのである。

 遠くへ行きたい。

 これまで少し重かった腰を上げてみたいと思う。

(文=藍野裕之)

あいの・ひろゆき
1962年東京都生まれ。広告制作会社、現代美術のギャラリー勤務のあと、フリーの雑誌記者に。『サライ』『BE-PAL』『山と溪谷』などの雑誌で取材と執筆に携わる。自然や民族文化などへの関心が高く、日本各地をはじめ、南太平洋の島々などへも足をのばし、ノンフィクションの作品のための取材を重ねている。著作に『梅棹忠夫ー未知への限りない情熱』(山と溪谷社刊)、『ずっと使いたい和の生活用具』(地球丸刊)などがある。

滝沢守生(タキザー) よろず編集制作請負

本サイト『Akimama』の配信をはじめ、野外イベントの運営制作を行なう「キャンプよろず相談所」を主宰する株式会社ヨンロクニ代表。学生時代より長年にわたり、国内外で登山活動を展開し、その後、専門出版社である山と溪谷社に入社。『山と溪谷』『Outdoor』『Rock & Snow』などの雑誌や書籍編集に携わった後、独立し、現在に至る。日本山岳会会員。コンサベーション・アライアンス・ジャパン事務局長。

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