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『岳人』が選んだ新しき道。めざすは山の文藝春秋
2014.04.07 Mon
宮川 哲 編集者
去る4月2日、都内のモンベル東京営業所(港区高輪)において、「雑誌『岳人』の出版事業承継について」の記者会見が行なわれた。
これは、中日新聞社が65年の長きにわたって担ってきた山岳雑誌『岳人』の出版業務を、モンベルのグループ企業であるネイチュアエンタープライズが引き継ぐに至る経緯を発表したものだった。
山岳、アウトドア関連の業界関係者のなかでも、年明けころからちらほらと囁かれていた『岳人』の行方であったが、それを明確にする会見となった。国内においては、老舗の『山と溪谷』とともに人気はもちろん、その存在意義をも二分する雑誌だっただけに、去就については多くの人々の注目を集めたようである。
今回の会見は、中日新聞社とネイチュアエンタープライズ社との共同記者発表という形をとっており、中日新聞東京本社(東京新聞)の事務局長である鷲見(すみ)卓さんと、モンベルグループの会長、辰野(たつの)勇さんが出席している。
会見の冒頭、中日新聞社の鷲見さんにより発表されたのは、『岳人』商標権譲渡についての経緯と両社の合意内容である。曰く、中日新聞社は今年3月27日、月刊登山誌『岳人』の商標権をネイチュアエンタープライズ社(モンベルグループ)に無償譲渡する契約を締結し、双方が契約書に調印。中日新聞社は7月15日発売の8月号までを刊行し、ネイチュアエンタープライズ社は8月発行の9月号から発行を引き継ぐ、という。
そもそも、『岳人』が生まれたのは1947年のこと。中日新聞社が刊行するようになる以前に、京大山岳部の設立者のひとりでもある伊藤洋平らが創刊したものである。その誕生の経緯からして、現代で言う情報誌としての位置づけではなく、登攀の記録や報告などを扱った先鋭的な山の専門誌であった。戦後間もないこの時期にヒマラヤのジャイアンツをめざす伊藤らが立ち上げただけに、世界に通用する山の技術や精神を追究したものであり、平成のいまにある山岳雑誌とは、その編集方針すらも違っていた。
中日新聞社が刊行を担当するのは、第14号以降のことだ。中日新聞社の前身である当時の中部日本新聞社に、伊藤洋平らが刊行を持ちかけたという話である。以来、中日新聞が編集、制作、刊行を手掛け、今年の2月号で通巻800号を迎えるまでになっていた。それまでに『岳人』が、日本の登山界や登山文化に与えてきた影響の大きさははかり知れない。ただ、『岳人』が近年の出版事業を覆うさまざなま問題に直面していたのも事実であろう。結果的に、この商標権の譲渡という形をとるに至っている。
愛すべき山岳誌がなくなってしまうことは、やはり許しがたい。奇しくも『岳人』が刊行された1947年に生まれたのが、モンベルグループの現会長である辰野 勇さんだった。山を志してきた辰野さんだけに、この雑誌への思い入れも一入であり、『岳人』をモンベルが引き受ける決断を自ら下していた。
「だから、編集長は僕がやるんです」と、辰野さんははっきりと言っている。しかも、いままでの『岳人』と変わらずに、月刊誌のペースを守って刊行していくという。
いまありがちな情報誌にする意図はなく、「ロマンチストと言われてしまうかもしれないが」と、言葉を添えつつ、『岳人』が育て上げてきた伝統を守り、山を文化として、文学として捉えられるような編集方針を立てている、と語っていた。
めざすは、山の文藝春秋であり、山のナショナルジオグラフィックである。
これも、辰野さんの言葉だ。
『岳人』はいま、第三の道を歩み出そうとしている。伊藤洋平がめざした『岳人』と、中日新聞社が65年の歳月を支え続けた『岳人』と、そしてモンベルが手掛けようとしている『岳人』と……。どんな未来が待っているのか、しっかりと見つめていきたい。なにはともあれ、モンベルらしいと思う。
新生『岳人』9月号は、8月に刊行される。