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【ユーさんの73年_9】中川祐二、73年目のアウトドアノート~ユーコンからひとり、ロス、サンフランシスコへ。
2021.07.06 Tue
中川祐二 物書き・フォトグラファー
アンカレッジからカヌー7艇を積み、7人の仲間と2日間キャラバンをしてホワイトホースへ。そこからユーコン川360kmを4日半かけて下り(*1)、スタートのホワイトホースのキャンプ場に無事に帰ってきた。
(*1)ユーコン川360kmを4日半かけて下り=本連載【ユーさんの72年】その⑧、「中川祐二、72年目のアウトドアノート~1974年の夏、ユーさんユーコンを下る」に詳しい。
翌日、ステーションワゴンにまた荷物を積み込み、アンカレッジまで1,100kmのキャラバンが始まった。ぎゅうぎゅうに詰め込まれた車がついに悲鳴をあげた。休憩をしたあと、乗り込もうとしたらやけにガソリン臭い。車の下をのぞき込んだら、ガソリンタンクとおぼしきものから一筋の液体が出ているではないか。車の腹を擦ったとき、タンクに穴を開けてしまったようだった。う~ん困った。どうしたものか考えた。すると誰かが、ガムをくっつけてとりあえずそれでふさごうと。みな持っていたガムを口に放り込み大急ぎで噛んだ。柔らかくなったガムを傷口に押し当て、さらにガムテープを貼った。見た目には止まった。今度は慎重に運転し車屋を探した。
次の街に車屋があった。事情を話すと車の下を覗き込みガムテープを剥がした。「ワォ、おしっこみたいだ!」とその兄ちゃんは叫んだ。どうするのかと思ったら石鹸を塗り込み、その石鹸をくれた。途中だめになったらまた塗り、騙しながら帰れということらしい。俺たちの思考回路とたいして変わらなかった。その石鹸を塗りながらアンカレッジへと向かった。
アンカレッジは都会だった。郊外にキャンプ場を探し、そこで泊まった。電気のつく夜は何日ぶりかだった。翌日、予備日を消化し帰国の途に着いた。しかし飛行機に乗ったのは7人のうち6人だけだった。
僕ひとりは空港でみなを送った。僕はこのままロスへ行こうと企んでいた。しかし、カヌーもキャンプ道具もあり、そんなものを持っていくわけにはいかない。そこで空港内の土産物屋のお姉さんに事情を話し、1週間荷物を預かってもらうことにした。たしか「銀座」という名前の店だった。きれいなお姉さんだった。
アンカレッジからロス往復の航空券は持っていた。しかしアンカレッジから東京への航空券は団体の切符なので、7人で使わなければならないという。つまり僕が持っている帰国のための航空券は無効になると、ほかのツアーの添乗員が言っていた。これはまずい。日本を出発前にこの点は何度も確認した。大丈夫だというのでアンカレッジからロスまでの往復航空券を買った。僕はそのツーリストへ電話し、その確認をした。するととんでもない返事が返って来た。その帰りの航空券は価値のあるものなのでうまく潜り込んでくれと。
馬鹿言ってるんじゃないよと喧嘩になった。たしかに帰国のための航空券は使えない物だった。それ以上電話をしている時間はなかった。ロスへ行く時間が迫っていた。いったん電話を切り、改めてかけ直すことにした。
しかし、泣きっ面に蜂とはこのことだろう。航空会社のカウンターへ行くとどうも雰囲気がおかしい。列に並んでいるとロス行きは欠航だと言っているようだ。僕の前に並んでいた年寄り夫婦は、その日の泊まれる指定のホテルへ行くようにと言われていた。
ここまでの会話は他人のことだから聞き取れたような気がした。いざ僕の番になると同じことを言っているのだろうがまったく聞き取れない。さてどうしたらいいか瞬時には考えられなかった。別にロスで彼女が待っているわけではなく、ホテルの予約だってしていない。ポケットには友人から聞いたサンディエゴのホテルの住所を書いたメモが1枚入っているだけだった。そのとき勝手に口が動いた、といまでも僕は思っている。
“What can I do?”
カウンターの女性は困った奴が来たとばかりにため息をつき、チケットになにやら書き込み、搭乗口のあるゲートを指差した。よし、これでロスまで行かれるぞ、だけど僕だけなのかな? そのチケットはフェニックスへ行く便だった。そこで乗り換えロスに行くようだった。
はじめてのアメリカ。いままでもアラスカというアメリカにはいたものの、本土にそびえ立つビル群は同じアメリカとは思えない別の国だった。太陽に照らし出された建物が鏡のようなビルの外壁に映り込み、ゆがんだ像が僕をドキドキさせた。
フェニックス、アリゾナ州の州都だが僕はそのとき、グレン・キャンベルの“By the Time I Get to Phoenix”(*2)という曲しか思い浮かばなかった。どこにあるのかもさっぱりわからないが、きっとロスへは行けるのだろうと思った。
(*2)“By the Time I Get to Phoenix”=アメリカの著名なシンガーソングライター、ジミー・ウェッブの作詞作曲による楽曲のタイトル。当時の邦題は『恋はフェニックス』。多くのシンガーにカバーされたが、なかでもアメリカのカントリーミュージックを代表するシンガーのひとりでグラミー賞も受賞している、グレン・キャンベルが1967年に歌ったバージョンがヒットした。
搭乗口への長い通路を歩きながら、うしろを確認し、誰もいないのをいいことに腹に力を入れ屁を出そうとした。するとどうだろう、なんとも言えぬ嫌な感覚が肛門周辺に走った。慌てて腹を引っ込めたがときすでに遅し、歩き方が急に不自然になった。
急ぎ足ではあるものの平静を装いトイレへ駆け込んだ。案の定だった。パンツをゴミ箱に捨てた。スペアの下着など持っているわけもなく、ジーパンをそのままはいた。
僕の席はいちばんうしろの2席の通路側だった。隣はイヌイットのおばあさんだった。席に着くなり僕はそこにあった毛布を腰に巻いた。機内の室温が低く、腰のあたりがスカスカしていたのである。いまでは信じられないことだが、機内のうしろ3分の1くらいは喫煙席。数時間、そのおばあさんとタバコを吸いながらの旅となった。
フェニックスでロス行きの便に乗った。機内に入ってびっくりした。エコノミー席の半分ほどは日本人の子どもたちだった。きっと夏休みのツアーなんだろう。僕は数ヶ月分の給料をつぎ込んでの旅なのに、なんだこのガキどもは……! 腹立たしく思ったが、きっと金持ちの家のご子息様なのだろうと無視した。
ロスではほとんど街を見ていなかったが、サンフランシスコのちょっと田舎感は否めない。しかし、観光客の多い坂の街はユーコンでの冒険、ロスでの心細さを体験してきた僕にとってはなんとなくほっとした気にさせる街だった。
はっきりとした時間は覚えていないが、かなり遅い時間にロスへ着いた。バスのチケット売り場に並んだ。ポケットの中のメモを握り締めていた。なにせ、それしか情報を持っていないのだから。
僕の番がきてそのメモを見せた。売り場のお姉さんは早口で、
「もうサンディエゴ行きのバスはない、終わっちゃったわ。」
「…………」
またしても“What can I do”である。お姉さんは「とりあえずダウンタウンへ行きなさい」と言ってチケットを差し出した。
なにもわからない、どこを走っているのかも、どこへ向かっているのかも。片側4車線もあろうかという広いハイウェイをしばらく走り街中へ出た。バスターミナルが終点のようだった。ダッフルバッグとカメラバッグを肩にかつぎ、街の明るいほうへ歩き出した。
いくつかのブロックを越えたところ、暗い路地の奥にホテルというネオンが見えた。もう明日になろうとしている時間だった。一日中の移動で疲れ切っていた。おまけに、アンカレッジからパンツも履いていなかった。
半分すりガラスの入ったドア1枚だけが入り口だった。電気はついている。恐る恐るドアを開けてみた。小さなカウンターと椅子が置かれていた。人はいなかった。こういうときはなんと言って呼び出したらいいのだろう、声を出せばわかるだろう。
「すいませーん!」
すぐに爺さんが出てきた。泊まりたい旨を話すと一泊の料金を言った、いくらだったか忘れたが決して高い料金ではなかった。金を払うと私についてこいともうひとつの扉を開けた。
その扉はギギギーと嫌な音がした。目の前にはエレベーターがあった。エレベーターとはいえ、ドアは手動式、金網でできた箱に乗るようなものだった。3階で降り廊下を突き当たるとまたドアを開けた。これもギギギーである。廊下に面して部屋のドアがいくつも並んでいた。そのドアがみな少しずつ開いていた。その隙間からは、こんな遅い時間にうるさいなという目が並んでいた。夏の夜、もちろんエアコンなんてついていない安宿、きっと長期で労働者が泊まっているのだろう。
アルカトラズ島。サンフランシスコのなかでも一大観光スポット、フィッシャーマンズワーフの沖、サンフランシスコ湾内にある小島。灯台、軍事施設、刑務所として使われてきたがいまは観光施設として開放されている。この島から何人もの受刑者が脱走を試みたがすべて失敗に終わっている。それをテーマにした映画もつくられている。
どうもこのホテルの建物は真四角で中央が吹き抜けになった建物のようだった。爺さんは腕を後ろ手に組み、持った鍵束が歩くたびにジャラジャラ、ドアを開ければギギギー、僕は怖くて仕方がなかった。いちばん奥のドアを開け僕に鍵を渡した。ダブルベッドと洗面があるだけの部屋だった。窓を開けると隣の空き地が見えた。その向こうは道路なのだろう、明るい建物が連続していた。そちらの方向からアメリカのパトカー独特のサイレンが聞こえていた。
バッグからウイスキーのポケット瓶を出し、ひと口飲んだ。ようやく着いた、というより寝られることに安堵し、ベッドに入った。頭の中は興奮していた。ウイスキーが回っているのにちっとも寝れなかった。今回僕たちは夜の短いアラスカの旅用に睡眠薬を準備していた。もちろん使うことはなかったのだが、万が一のこともあり僕がそれをもらってきていた。
袋から出し錠剤を半分に割って飲んだ。
パトカーのサイレンが遠くから聞こえてきた。一気に寝たようだった。気がついたときは9時を過ぎていた。一晩中パトカーはサイレンを鳴らしていたような気がする。ドアの軋む音、鍵束の音、エレベーターの金属音、隙間から睨む目、ロスの印象は恐ろしいところだとしか思えなかった。
フロントへ下りていくと昨夜の爺さんが座っていた。何人かの泊まり客と話をしていた。礼を言って出ていこうとすると、泊まり客がどこから来た、と聞いた。日本からというと、アメリカ人独特のほーっというような顔をし、小さく頭を振った。
ロスにいてもどこへ行くという目的もなかった。第一印象が悪かったせいか早くロスを離れたかった。たったひとつのサンディエゴ情報は、友人のカメラマン三好耕三(*3)君が教えてくれたもので、そこへ行かなくてはならないという理由はまったくなかった。空港へ戻り飛行機に乗った。頭の中には“I Left My Heart in San Francisco”(*4)が流れていた。
(*3)三好耕三=写真家。8×10インチ判の大判カメラ、さらに16×20インチ判の超大型カメラを使い撮影。パワーがあり、繊細な白黒作品が魅力だ。(*4)“I Left My Heart in San Francisco”=アメリカの歌手であり俳優でもあるトニー・ベネットの代表楽曲のひとつ。日本では『想い出のサンフランシスコ』として知られている。トニーによってリリースされたのは1962年のこと。
サンフランシスコ。天気のいい昼間に着いたせいかすごく気持ちのいい街だと感じた。荷物を持ったまま街をぶらついた。しかしこの街は荷物を持って歩いてはダメなことがすぐに分かった。ものすごい坂の街だからだ。少し坂を上り、歩くのが疲れたので左に曲がった。しばらくいくと左に赤錆びた非常階段が見えた。その下にホテルの文字。こんな汚いホテルがメインストリートの脇にある。僕の財布にも優しそうだった。
ゴールデンゲートブリッジ。サンフランシスコ湾に架かる巨大な吊り橋。サンフランシスコとマリンカウンティーまでの2.7kmを結んでいる。ここは歌にあるように霧が多く発生するため、視認性のよいオレンジ色に塗られている。金色ではない。
中に入ると小さなカウンターがあり、男性が座っていた。1泊いくらか聞いて3泊したいと告げた。非常階段と同じようにかなりくたびれたホテルだった。やっと落ち着けたところでしなくてはならないことがあった。東京のツーリストにコレクトコールをして帰りのチケットをなんとかしなくてはならない。何度か電話でやりとりをし、僕がアンカレッジを立つ前日、添乗員が新しいチケットを持ってくるということになった。帰りのチケットを新たに買うかもしれないと思っていたので、ケチケチとお金を使っていたが、これで心の中でくすぶっていたモヤモヤしたものが晴れた。
街へ出てまずは腹ごしらえだ。小さな食堂があったのでそのカウンターに座った。サラダとバーガーを頼んだ。さっそく失敗だった。財布の紐がやや緩みひとりなのについあれとこれという頼み方をしてしまった。運ばれてきたサラダの大きいこと。すり鉢のような器に山盛りの野菜が乗っていた。バーガーにもサラダとフライドポテト。若いといってもこの量は食べられるものではなかった。一生懸命サラダを食べたが半分で諦めた。ひと口だけ食べたバーガーとポテトは紙に包んで持って出た。
坂道を走るケーブルカーはどれも観光客で一杯だった。何台かやり過ごし飛び乗った。終点のフィシャーマンズワーフ(*5)まで行ったが、ここは江ノ島かと思われるようなところだった。シーフードのレストラン。屋台のアイスクリーム、スパゲティの店、射的、ボール投げ、ものすごい賑わっている観光地だった。
(*5)フィッシャーマンズワーフ=サンフランシスコを代表する一大観光地。もともとは名前の通りの「漁港」で、街の拡大とともに大きく変貌を遂げた場所。
ひと回りし、水族館へ入った。その中で、ザックを背負った男に会った。同じような歳格好で話しをしながら見て回った。やはりひとりで旅をしているようだった。表へ出て屋台でアイスクリームを買い公園で食べた。僕が英語を理解するのも大変だったが、彼も僕の英語を理解するのも大変だったろう。
食べ終わると彼は公園の植え込みに入って行った。背の高い植物だったのでそれほど身長のない彼の姿は見えなくなった。しばらくするとニヤニヤしながら出てきた。小便をしにいったのだった。僕はびっくりした。日本なら当時まだ立ち小便をするオヤジを見かけることもあったが、ここはアメリカ、サンフランシスコのフィッシャーマンズワーフ、有名観光地だ。こんな奴がいるんだ、旅慣れてるのか度胸のある奴だと思った。
あまりこの男と長くいるのはやめようと思い、約束があるとか、言い訳をつくって帰ろうとした。彼はいっしょにどこかへ行こうとしつこくついてきた。そしてザックから本のようなものを出した。
「これがあるからこれを売れば金になる、大丈夫だ」
と言いながらその本を開いて見せた。それは本ではなく、切手コレクションノートだった。きっと価値ある切手が入っているのだろう、きれいな切手が並んでいた。
ますます怖くなり、その場で別れた。
帰り際に街の情報が載ったフリーペーパーをもらって帰った。ライブハウスのページには有名人のショーからソロのミュージシャンまでたくさん載っていた。その中に気になるグループがあったので出かけてみることにした。地図を見ながら20分ほど、まだ客は誰もいなかった。そこはカントリーのライブハウスなのだが、カントリーロックではないことを祈りビールを飲んだ。
ぼつぼつと客が入ってきてミュージシャンも出てきた。演奏が始まった。ペダルスチール(*6)が入ったクラシックなカントリー、ときどきカントリースイング(*7)もあり、懐かしい僕好みのバンドだった。ローカルにはこんなバンドがあるのかと感激した夜になった。
(*6)ペダルスチール=ペダルスチールギターとも。カントリーミュージックのシーンでよく使われる楽器のひとつ。弦の調べを変えるためのペダルやレバーを備えたスタンドタイプの大型のギター。(*7)カントリースイング=カントリーとジャズをミックスしたスタイルで音楽の種類を表す言葉。ウェスタンスイングとも。
翌日、街を歩き、公園で休んでいるとそばで黒人の家族が空き缶を投げて遊んでいた。クリクリの髪の毛が可愛い3歳くらいの男の子と、大きな体のお父さん、お母さんがお昼を食べたのだろう、ランチが入っていた紙袋に缶を投げ入れていた。あまりに可愛い子だったので、お父さんに撮るよとジェスチャーをして写真を撮った。話をしていて彼はミュージシャンで夜、ショーで演奏しているという。店の名前まで聞いた。
ホテルへ帰っても夜は暇でもあるし、そのショーに行ってみようと出かけてみた。その劇場は案外簡単に見つかった。しかし、入り口にはややセクシーな女性の写真が出ているだけだった。どうやって入ったか細かいことは思い出せない。酒の飲める店だが、テーブルがあったという記憶はない。女性が出てきてダンスが始まった。しかしそれはいわゆるストリップティーズ(*8)というようなダンスではなかった。そばでテナーサックスを吹いていたのは昼間会ったあのお父さんだった。演奏しながら僕を見つけ、ちょっとびっくりした顔をした。
(*8)ストリップティーズ=英語で書けば、“striptease”。意味は、ストリップショーに同じ。“tease”はからかう、じらすの意。
何曲か演奏ののち、休憩時間に彼は僕のところへきた。「ここはあまりお前には相応しくないよ」というようなことを言った。きっと僕は相当若く見られていたのだろう。ホテルはどこだ、車で送るといい乗せられた。
僕は次のステージで繰り広げられるであろう絢爛たるショーを想像し部屋に戻った。
サンフランシスコの対岸、オークランドにジャック・ロンドン・スクエアがある。ジャック・ロンドン(*9)は、『野性の呼び声』、『白い牙』、『どん底の人々』などを書いた作家。記念の施設でもあるだろうと、地下鉄で出かけてみた。30分ほどで駅に着き、なにか手掛かりになる物がないかと歩いてみた。豪華なヨットが並んだハーバーの近く、そこだけ赤土剥き出しの土地に、小さな、汚い小屋がぽつんと1軒建っていた。屋根をシバで葺いたログキャビンだった。周りは近代的な商店が並び目の前の海には豪華なヨット、このコントラストはなんだ。幼少期、赤貧の時代を過ごしたロンドンには気の毒のような寂しさがある記念施設だった。
(*9)ジャック・ロンドン=1876年生まれのアメリカの小説家。自身の苦しい体験をもとにした作品を多く発表した。代表作は『野性の叫び声』。ゴールドラッシュ時のユーコンでの経験が、その題材となっている。1916年、40歳の若さで没す。
僕の子ども時代は、テレビからアメリカの楽しさ、巨大さ、美しさをいやというほど見せられて育った。大いに憧れ来てはみたものの、ヨセミテへ行って大自然を体験するわけでもなく、アウトドアの聖地であるバークレー(*10)へ行くわけでもない。ただただ、アメリカの入り口をうろうろと見ただけで終わってしまったアメリカ本土への旅だった。
(*10)バークレー=カリフォルニア州のアラメダ郡にある街。カリフォルニア大学バークレー校などもあり、いまでは学術都市しとても知られているが、60年代にはヒッピー文化が花開いた場所でもあった。
サンフランシスコ、こう見ると割と平坦に見えるが、かなりの急坂で知られた街。その坂を登るケーブルカーは観光の目玉ばかりか、通勤にも使われる市民の足。サンフランシスコの美しい景観はこの坂のおかげだと思う。決して歳をとってからは住みたい街だとは思わないが
アンカレッジへ戻った。空港近くの安い宿を探した。本当に、帰りの航空券を持ってくるのか心配だったが、そのときはただ待つしかなかった。その晩は近くのバーへ飲みに出掛けた。アラスカのバーはドアガラスも窓ガラスも凄く濃い色が入っている。なぜなら11時ころまで太陽が照っているからである。少しでも夜の雰囲気を出すため店内は暗くしてあるのだろう。そのグリーンともブルーとも言えない濃い色をつけたドアを開けた。中にはたくさんの人がいた。バーテンダーは、
「今日は貸し切りのパーティなんだよ。ひとりかい? カウンターでよければいいよ」
暗さに目が慣れると、たくさんいた人たちはかなりのお年寄りばかりで、ピアノに合わせてダンスをしたり、何人かで立ち話をしながら飲んでいた。ホールの中央にはミラーボールが回っていた。
僕は、カウンターの端でビールを飲みながらロスやサンフランシスコのことを思い出していた。ユーコンを下ったなんて遠い昔のようだった。フロアからは陽気なジャズピアノが流れ、それに合わせ、みな楽しそうに踊っていた。今度来るときまでには英語はもちろん、ピアノとダンスができるようになってきたいものだ。どれも道具はいらないし、決して邪魔にはならない。
何杯かビールを飲みバーを出た。午後10時だというのに、北極圏の強い太陽の光は容赦なく僕の目を射してきた。
翌日、日本からのツアーが来る時間に間に合うように空港へ行った。日本からの便が着き、ゾロゾロと日本人が出てきた。最後にツアコンらしき人が出てきて、僕のところへ近づいてきた。
「中川さんですか? これ帰りの航空券です」
日付、名前、航空会社名を確認した。ようやく本当に安心した。これで確実に帰れる。スキップを踏みたくなる気分だ。そのまま街へ出て買い物をした。まるでデビー・クロケット(*11)が着ているような革のヒラヒラが付いたベスト、ムースの歯のペンダント、これもいっちゃえとウエスタンブーツも買った。大荷物になった。預けていた荷物を忘れていたわけではないのだが。
(*11)デビー・クロケット=デイヴィーまたはデイヴィッドとも。18世紀のアメリカの軍人でテキサスの独立を謳い、アラモの戦いで捕らえられ、処刑されている。アメリカの国民的な英雄とされている。
帰りに花束を買った。空港の土産物店「銀座」へ寄り、西海岸の話、チケットの話をし、預かってもらっていた荷物を受け取り、その花束をお礼に差し上げた。その店で売っていたスモークサーモンの半身のハーフサイズも買った。ハーフでも40cmはあった。かなり大きなサーモンだろう。
その晩がアメリカ最後の夜だ。宿にあるバーでひとり祝杯をあげた。地元の人と思われる人たちが飲んでいた。みな車で来ていたがそんなことお構いなしだ。その中のひとりが、
「日本人か、アルバイトしないか?」
「なんのアルバイトですか?」
「鮭の腹からイクラを出す仕事だ。時間1ドルでどうだ」
僕の日本での給料よりはよかった、でも断った。しばらくすると彼は、よろよろした足取りで帰って行った。もちろん車でだ。
翌日、行きよりも数段増えた荷物を持って飛行機に乗った。低い街並みの上をかすめるように飛び立ち海に出た。遠くに氷河をいただいた山々が見えた。
これまで、ユーコンへ行くために一生懸命やってきたカヤックは、この旅をピークとして少し距離を置くことになった。
数年後、この旅で気になっていたカナディアンカヌーと深く付き合うようになった。しかし、自らカヌーを作るようになるなんて、このときは考えもしなかった。