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【ユーさんの73年_11】中川祐二、73年目のアウトドアノート〜早逝した友人、細田 充くんのこと。
2021.08.31 Tue
中川祐二 物書き・フォトグラファー
カメラマン、アウトドアライターである前に、登山家でありロッククライマー、カヌーイスト、テレマークスキーヤー、そして、どのステージでも冗談と酒をなくしては彼のことは語れない。
高校3年生の実習が終わっての記念写真。ふだん実習で写真を撮るなんてことはなかったので、きっと最後の実習のとき撮った写真だろう。肩を組んでいるのが細田 充くん。組まれているのが僕。
細田 充、1948年2月26日東京生まれ。東京都立園芸高校園芸科(*1)で僕の隣に座ったのが細田充くんだった。鼻が大きく、眉毛がカモメのようにつながり、細く背の高い体型をしていた。1年生最初のホームルームで細田が級長に指名された。クラスでの選挙とか推薦でなく教師から指名されたのだった。つまりそれは暫定的と言っていいだろう。彼がそのクラスでいちばん成績がよかったからだと思う。でも1学期だけやって、次の学期はみんなから下された。みんなの上に立ってまとめるということには向いていなかった。
(*1)東京都立園芸高校園芸科=世田谷区深沢にある農業高校。1908(明治41年)、東京府立園芸学校として開校。僕の入学当時は園芸科、造園科、食品化学科の3科があったが、現在では園芸科、食品科、動物科の3科になっている。
彼は、新宿区の戸山にあった都営住宅に住んでいた。父親は歯科技工士、3人兄弟の真ん中で上に兄、下に妹がいた。その妹、街を歩いていてまったく知らない人から、”お前、細田の妹だろ”と言われるくらい似ていた。戸山第一中学校を出て園芸高校へ。たぶん彼の成績なら偏差値の高い普通科の高校でもいけたと思うのだが、園芸高校を選びトップに近い成績で入学した。それには理由があった。
同学科の1年上に田中栄一くんがいた。彼も戸山第一中学校の卒業である。田中くんは蝶類に関して異常なくらい知識を持った男で、細田は彼のあとを追いかけこの高校に入ったと言っても過言ではなかった。
田中くんは高校卒業後、農工大へ進み、動物行動学の日高敏隆(*2)先生に師事した。その後、京大へ移籍し医師の道を志すと言っていた。しかし、人体解剖の授業で血を見て気を失ったと言っていたので、医師になったかどうかは分からない。若くして旅立ってしまったので、その後のことを確かめることもできない。
(*2)日高敏隆=日本に動物行動学を紹介した研究者のひとり。理学博士。東京農工大学農学部講師・助教授・教授を経て、京都大学名誉教授。故人。
細田も彼の薫陶を受け、蝶に関しては詳しかった。3人で野猿峠(*3)や高幡不動の多摩丘陵へ、ギフチョウの食草であるカンアオイ(*4)を採集によく出かけた。
(*3)野猿峠=野猿街道にある八王子市下柚木の野猿峠(標高160m)。現在は整備された道路となっているが、当時はハイキングコースだった。(*4)カンアオイ=ウマノスズクサ科カンアオイ属の植物。ギフチョウの幼虫の食草。
僕は蝶にはほとんど興味はなく植物専門だったが、ちがう世界の話が聞けるので、おもしろがってついて行った。
これも高校3年生、修学旅行へ行ったときの車内でのひとコマ。細田の着ているのはその頃からクライミングに傾倒していたためか、ノールウェイのアウトドアメーカー、デボルトのクライミングセーター。
学校で細田は山岳部、僕は盆栽部に入った。世の中広しといえど高校で盆栽部、もっともジジイ臭いクラブ活動だと思う。細田の入った山岳部はキスリング(*5)に石を詰め込み、学校の周りを歩いたり、大きなヒマラヤ杉を岩壁に見立てロッククライミングのようなことをしたり、大きな杉の木の間にロープを渡しチロリアンブリッジ(*6)とうそぶいて遊んでいた。「あいつら本当に山岳部? 木登り部じゃないの」とみな陰口を叩いていた。
(*5)キスリング=キスリング型リュックザック。両サイドに大型ポケットが付いたコットン帆布の横長のザック。片桐製が有名だった。(*6)チロリアンブリッジ=沢や崖でロープを水平に張り、それを伝って対岸に渡ること、またはその技術。
夏休み、田中くんと細田と僕は昆虫採集と植物採集に行こうと計画していた。しかしいちばん天気のいい「梅雨明け十日」はいつも山岳部の合宿と重なり、3人で出掛けたことはなかった。黒斑山から浅間山、白馬岳から白馬鑓ヶ岳へは田中くんとふたりで行った。山岳部は1週間くらいをかけ北アルプスなどの縦走をしていた。
高校1年生の頃か、野猿峠付近の雑木林にカンアオイを探しに行ったときの写真。左は細田 充くん。右は一年上の田中栄一くん。この頃、田中くんはきっとギフチョウを飼っていたと思う。
休み明け、みな日に焼けた顔で登校した。細田はちょっとおかしかった。日には焼けていたがなんとなく真っ直ぐに立っていない。右手をだらっと下げまるで『あしたのジョー』の力石 徹(*7)のようなポーズをしていた。話を聞くと合宿で重い荷物を長時間担ぎすぎ、おまけに左右のバランスも悪かったのだろう、ザック麻痺(*8)を起こしてしまったという。正確には右肩神経叢麻痺というらしい。鉛筆は持てない、弁当の箸も使えない。左手を使いスプーンで食べていた。
(*7)『あしたのジョー』の力石 徹=『あしたのジョー』は週刊少年マガジンに連載されたボクシングをテーマにしたスポーツ漫画。梶原一騎原作、ちばてつや作画。その主役、矢吹ジョーの対戦相手力石 徹がとった戦法。ファイティングポーズをとらずに両手を下ろした棒立ちのまま相手の攻撃をガードしない“ノーガード戦法(両手ブラリ戦法)”。 (*8)ザック麻痺=重いリュックサックを長時間背負うと、リュックサックの重みで肩が沈み、腕のしびれや運動麻痺が起こること。
授業中に細田の右手を引っ張り、机から落とすのがおもしろかった。すると「おい中川、腕落とすのやめろよ!」と大きな声を出し、左手で右手を掴み机へ戻した。事情を知らない先生は「おい、そこうるさいぞ! なにしゃべってるんだ」。すると細田は「中川が僕の腕を落とすんです」と。事情を知らない先生は目を白黒させるばかりである。2、3ヶ月、不自由な生活をしていた。
園芸科というのは花を育てたり、野菜をつくったりがおもなのだが、食品加工の授業ではジャムづくりを、造園の授業では造園設計を、畜産の授業では鶏の食肉解体もした。
この食肉解体のとき、細田と示し合わせイタズラを企てた。鶏舎の前に置かれたテーブルの上にはまな板と、ピカピカに光る包丁が置かれていた。細田と僕はいちばん前に陣取った。助手の先生は丸裸になった鶏に包丁を入れ、これは手羽、これは胸、これはモモと解体し、ここがササミと2本を切り出した。僕が「先生! あそこになにか飛んでる」と古典的な手法で先生の注意を引いた。その間に細田はササミを掴み、口に入れた。それを横目で見て僕も残ったササミの1本を口へ放り込んだ。先生はやっぱりやったかこやつめらがと知りつつ、あれササミがないと言い、授業は最後まで進んだ。別におとがめはなかった。
この解体ショーでのつまみ食いは毎年の通過儀礼のようなもので、上級生からの申し送りがあったものだった。
3,000坪の農場には肥溜めがいくつかあった。農場にある便所はもちろんボットン便所である。この便所も自分たちで汲み取らなければならない。この仕事をすると、農場でできた作物は決して食べてはならない、という鉄の掟があるにもかかわらずトマトがもらえた。
汲み取った肥は農場の肥溜に運び、熟成させるために数ヶ月放置しておく。すると表面が乾きかさぶたのように固くなる。小動物が乗っても問題ないほどだ。しかし、部分的にはまだ固まっていないところがありぷくぷくしているところもあった。そんなところに落ちもがいていた雀を僕たちは発見した。細田はどこかから竹の棒を拾ってきて、多分ナスの支柱だろう、うまく拾い上げた。そのまま水道のところへ持って行き洗ってやった。授業から戻ったらもう雀はいなかった。
この学校は、当時としては珍しく高校なのに2期制だった。おまけに卒業論文さえあった。僕は盆栽部で、「山野草の育て方」なんていう安っぽい実用書みたいなものを書いた。高校3年間、自宅近所にあった卒業生が経営する賛花園という東洋らんや高山植物、山野草を栽培、販売するうちで僕はアルバイトをしていた。だからその手の知識はちょっとだけはあった。
細田は生物部にも所属し先生の指導で蜜蜂の研究をしていた。もちろん田中くんも生物部だ。農工大や蚕糸試験場にも出向き電子顕微鏡なども使っていたようだった。
職業高校は進学のためのカリキュラムが組まれていない。就職することが前提なので受験をするには単位が足りない。そこで夏休みの進学組は補講をし受験に備えた。
3年の暮れ、大学を決定しなければならない。僕は農学科のある日大を選んだ。この大学は推薦制度があり、高校3年間を通し全学年の1割程度の成績ならばこの制度が適応されるという。園芸科2組で80人、8番以内ならば推薦がもらえるらしい。細田はなんとかそのラインをクリアし獣医科を希望した。
僕はといえば低空飛行、とても推薦は無理だろうと思っていた。ところが隣のクラスの某君が同大への推薦状を書いてもらったという噂を聞いた。隣のクラスの女の子を引っ張り出し、彼の順位のほどを聞いてみた。複数の人に聞いたが僕より下は確実のようだった。
僕は職員室に乗り込んだ。担任の席に先生はいなかった。作業服のまま机の上に腰を掛け先生を待った。しばらくして現れた先生に、「隣のクラスの某君は、僕より順位が下だと思われるのに推薦状を書いてもらったらしい。隣の担任に聞いて、もしそれが本当なら先生、僕にも書いてくれませんか?」「待て待て中川、わかったわかった、書くけど絶対このことは人に言うなよ。公文書偽造になる」。そう言われても仕方がないのだけれど、「言いません言いませんとも」。ヒッッヒ、うまくいった。
50年後のクラス会で先生にそのことを話すと、
「そんなことあったか?」
かくして夏の補講も予備校にも行かず、大学入試に成功した。入学許可証が来た翌日から僕はスキーに行くことにしていた。細田を誘ったがあまりいい返事をしない。問いただすと、もう1校受けたい大学がありそれは早稲田の仏文だと言う。僕は笑いを抑えながら、「ジャン ポール・ベルモンド(*9)にちょっと似てるからって、仏文かよ!」と笑ってやった。
(*9)『ジャン ポール・ベルモンド=フランスの俳優。彼の出演作『気違いピエロ』をえらく気に入っていた。ほかにベルモンド出演作ではないが『8 2/1』などフランス映画をよく見に行っていたようだ。
もちろん、翌日ふたりは菅平の雪の上にいた。
TAJ(テレマークスキー協会)が主催するレースの取材で。ワイルドターキーがスポンサーとなって北海道から山陰までのレースを追いかけていた。取材と同時にレースに出場するという離れ業もやってのけた。
この大学にしては小さな学部でも、日本全国から来るマンモス校。まして学科がちがえば学内で会うことはほとんどない。たまに会うと、細田の友だちが「こいつかよドケチの友だちの変わったやつって」。大学で細田はドケチと呼ばれていた。きっとあることないことをおもしろく話しているにちがいなかった。
大学にも慣れた頃、細田は四ツ谷にあった「欧州山荘(*10)」という山道具屋で働き始めた。そしてその店のオーナー、登山家の大倉大八(*11)さんの紹介で「グループ・ド・ボエーム(*12)」という山岳会に入った。この会は当時かなり先鋭的な会で佐内 順氏や武藤 昭氏(*13)が創立したもので、ヨーロッパやソ連(当時)へも遠征していた。日本では明星山の開拓(*14)など僕も何度か同行したことがあった。毎週開かれる集会へ誘われ、僕も参加したが、僕は山よりはスキーや釣りの話ばかりしていた。
(*10)欧州山荘=当時、四ツ谷にあった登山用品店。(*11)大倉大八=日本を代表する登山家のひとり。新田次郎の『栄光の岩壁』に登場する主人公のザイルパートナーは大倉をモデルとしている。四谷にあった登山用具専門店「欧州山荘」のオーナー。故人。(*12)グループ・ド・ボエム=1956年に創設された山岳会。かなり先鋭的な会で、明星山の開拓は有名。(*13)佐内 順、武藤 昭=「グループ・ド・ボエーム」の創立者のふたり。佐内 順は登山家、作曲家、著述家。武藤 昭は登山家、写真家、ヨーロッパ、アメリカでの登攀、スキー等の作品を雑誌などに掲載。ともに故人。(*14)明星山の開拓=新潟県明星山を高校生だった佐内 順と武藤 昭が登攀ルートを開拓。
そのうち佐内さんが「中川、お前さ、もうボエームの会員でいいよ」と、入会を希望していないのに会員となった。
佐内さんの相棒、武藤 昭さんは山岳カメラマンで『山と溪谷』にその作品を発表していた。細田はそのモデルを務めたり、アシスタントをしたり、そのうち自身の作品と記事も出すようになった。なにをやってもそつがなく、知識が豊富できっと編集部では便利な存在だったのだろう。
武藤さんは雑誌のほかコマーシャル関係の仕事もしていた。そのひとつにフィルム関係の仕事があった。新しいカメラやフィルムの宣伝に冬山での写真を撮ることになった。場所はアクセスのいい中央アルプス宝剣岳に決まった。ディレクター兼カメラマンは日本クリエーティブセンター(NCC)の本多信男(*15)氏、ファーストアシスタントは武藤さん、モデル兼雑用係の細田、ほかにもうひとり、ボエームから女性がモデルとして参加した。さらにアドバイザーとして登山家であり画家の岡部一彦(*16)氏も加わった。僕は荷物運びの雑用係だ。
(*15)本多信男=写真家。NCC、日本クリエイティブセンターの創立メンバー。猫の写真集を多数出版。故人。(*16)岡部一彦=登山家、画家、作家。漫画家・岡部冬彦の兄。故人。
千畳敷カールの下部にイグルーを作り、その中の様子を撮るという撮影だった。零下20度くらいはあっただろうか、雪のブロックを切り出し積み上げドーム状の家をつくる。ひどく寒いのだが、それほど辛いとも思わなかった。むしろ雪の中は暖かく楽しい作業となった。
3、4日くらい雪の中での撮影が続いた。途中、遭難事故があり急遽救助隊に参加した。といっても僕はなににもできないので遠巻きに見ているだけだったが。
このときの仕事ぶりを見て、NCCの本多さんは細田を気に入り、自分のアシスタント兼NCCのスタッフとして迎え入れようと考えていたようだった。ことあるごとに武藤さんと細田、本多さんとで打ち合わせをし、さらにほかの撮影にも出かけていたようだった。
年も明けたある日、武藤さんが僕に話したいことがあると現れた。
「じつはさぁ、本多さんは細田をNCCに入れようとしてたんだけどさ、宝剣のあといくつか仕事をしていてちょっとどうかな? って言い始めたんだよ。」
「……」
「そこで本多さんが言うんだけど、細田より中川がいいって言い出してんだよ。どうお前、NCC行く気ある? こんな状況なんだけど」
当時、僕はまったく就職が決まっていなかった。研究室の助教授がいくつかの仕事を紹介してくれてはいたが、あまり乗り気ではなかった。
少し時間が欲しいとそのときは答えなかった。僕の父親は編集ではないが新聞関係の会社、兄は美術大学を出てデザインの仕事をしていた。さて僕はと言えば、農業高校から農学部、記録などの必要性から写真は撮るものの、仕事にするなんてことは考えたこともなかった。
NCCという会社は広告の制作会社で、パンフレットなどの印刷物、ポスター、社内報のデザイン、レイアウト、割烹のメニューまでなんでもこなす会社だった。もとは写真家でありジャーナリストの名取洋之助(*17)が起こした日本工房をルーツに持つ会社で、木村伊兵衛、亀倉雄策、河野鷹思(*18)など一流のアーティストを輩出していた。
(*17)名取洋之助=写真家、編集者、グラフィックデザイナー。日本工房を設立。故人。(*18)木村伊兵衛、亀倉雄策、河野鷹思=木村伊兵衛は写真家。日本工房設立メンバー。亀倉雄策はグラフィックデザイナー。雑誌『NIPPON』、1964年東京オリンピックのポスターのアートディレクションを手がける。河野鷹思はグラフックデザイナー。みな故人。
しばらくして僕はNCCにお世話になりたいと返事をした。ちょっと複雑な経緯があったため、4月からの入社はできず、見習いというか、アルバイトみたいなかたちを取り、翌月から会社へ通うこととなった。
僕もすっきりとしなかったが、細田はいかばかりだっただろうか。一度決まった就職が反故になり、そのポストに同級生が就くことになる。かなりのショックがあったにちがいない。しかしそのことに関して僕たちは一度も話したことはなかった。
細田は獣医の資格を持っていた。獣医科を卒業し、国家試験に受かっていた。これにはちょっとしたエピソードがある。50年も前の話だから時効ということでお許しいただきたい。理系の学部だからもちろん卒業には卒論が必要である。僕は民間企業へ行き、植物の繁殖に関しての実験をレポートしたのだが、細田はすごいことを考えた。獣医学のテリトリーには蜜蜂も入るのである。そう、彼は高校でも卒論を書いている。そのテーマは蜜蜂だった。細田は高校へ行き、どのように言ったかは知らないがその卒論を借り出した。そしてそれをコピーして大学の卒論として提出した。
果たしてその卒論は、大学でも認められ見事に卒業ができたのである。彼はひとつの卒論でふたつの学校を卒業したことになる。しかし、高校の卒論が大学でも認められるとはよほど優秀な卒論だったにちがいない。
細田は獣医の病院へ就職した。まず最初に買ったのは往診用の口がガバッとガマ口のように開く革のかばんだった。次に買ったのはスポーツタイプの日産シルビア。3人乗りだが後部座席が進行方向に座らず横に座る変わった車だ。どうしてそんなものが買えたのかいまだに不思議なのだが、病院に勤めたからと言ってそんなに給料をもらったとは思えない、一時金でも出たのだろうか。
しかし、その病院は2ヶ月で辞めた。だから僕はそのかばんも車も見たことがない。
その後、細田は、友人の知り合いを通じて印刷会社に併設している写真スタジオに勤務し始めた。かなりテクニカルな撮影が多く、4x5や8x10(*19)のカメラを持って全国を回るようなこともしていたようだ。その合間に山溪関係の仕事やアウトドア関連の仕事もしていた。
(*19)4x5や8x10=4インチx5インチ(10x12cm)、8インチx10インチ(20cmx25cm)の大判フィルムを使ったビューカメラ。
僕はNCCを辞め、外資系の出版社に移り、内部のゴタゴタに嫌気をがさしてきたところ、出版界にはカタログブームが巻き起こっていた。細田も僕もカタログ用の写真を撮った。山溪では登山道具カタログ、平凡出版(現マガジンハウス)の『ポパイ』、講談社の『ホトドッグプレス』。『anan』(*20)のカタログにまで引っ張り出された。
(*20)各社の登山道具カタログ=1968年にアメリカで出版された『WHOLE EARTH CATALOG』は地球で生きるために必要な道具や情報を集め紹介したもの。これを受け、日本では『MADE IN USA』や『Men’s Catalog』が人気となった。
次に僕は山溪の中尾武治くんとテレマークスキーを取り上げようと、日本テレマークスキー協会(*21)が主催する講習会やレースの取材に頻繁に出かけた。テレマークの取材にクロカンやアルペンのスキーでは肩身が狭い。道具一式を買い揃え、取材をするにはまず技術を身につけなければと練習に励んだ。雑誌で特集を組んだり、別冊をつくったり僕はテレマーク一辺倒となった。編集の中尾くんも仕事と称して方々のスキー場に僕を連れ出した。
(*21)日本テレマーク協会=TAJ(Telemark Ski Association of Japan)。1984年、テレマークスキーの普及・発展を目的として設立された団体。
雑誌ばかりではなく、ビデオ制作にも関わり撮影や編集のディレクションまでやってしまった。
積極的に登山や岩登りをしていた細田は、日本有数の難関ルートを有する剱岳の岩場を紹介する本を山溪から出すことになった。1ヶ月間剱岳にテントを張ってこもり、周りのルートを登り撮影、記録し解説するというなかなか大きな仕事だ。
細田 充くんが著した『剣岳の岩場』(山と溪谷社刊)。岩場の崩落などで実用性は落ちているものの、当時のルートを知るには貴重な資料でもある。
剱岳なんてこんな機会がないと行けないだろうと、ボエームの会員であり昔からの友人でもある三橋賢二(*22)くん、塚本哲夫くんと陣中見舞いと称して出かけた。三橋くんと僕はザイルを組み八峰チンネを登ったのだが、その晩、三橋くんにアクシデントが起こり、予定を早めてみなで下山した。細田もみなの安全を考え送ってきてくれた。仕事中なのにえらく迷惑な客人たちだと思ったにちがいない。
(*22)三橋賢二=登山用品店店員、登山用品輸入商勤務の経験のある登山のエキスパート。グループ・ド・ボエーム会員。
その後、細田はやはり山溪から創刊された『カヌーイングマガジン』(*23)という雑誌に携わった。メインのスタッフというより、実質的な編集長の役割をしているようだった。あまりたくさんの回を重ねずに休刊してしまったが、評判が良く当時休刊を惜しむ声が多く聞かれた。
(*23)『カヌーイングマガジン』=1989年に山と溪谷社から出版されたカヌー情報誌。
この時点で、カヌーは細田、テレマークは中川というような住み分けができたようにも思われた。しかし、僕はテレマークスキーで知り合ったモンベルの社長(当時)辰野 勇(*24)さんと懇意に付き合うようになっていた。辰野さんはクライマーであり、テレマーカーでもあり、さらにカヌーイストとしても有名だった。彼が、「ユーさん、カヌーのハウツー本をつくりたいんだけど、奈良まで来て写真撮ってよ」。一も二もなくオーケーし、奈良通いが始まった。春の吉野川で何日も撮影は続いた。花粉症の辰野さんはかなり辛かったにちがいない。
(*24)辰野 勇=アウトドアメーカー、モンベル創立者。現会長。
その後、辰野さんとモンベルのスタッフが黒部川を下ろうという事になり、それにも僕は同行した。
すると細田はテレマークにも顔を出すようになり、やはり山溪の本誌や別冊で写真を発表するようになっていた。そんなある日、細田に会うと、
「お前、カヌーやってるんだから、俺テレマークでやってもいいよな」
初めはなにを言ってるのかわからなかったが、なんとなく住み分けていたカヌーとテレマークだったが、中川は辰野さんとカヌーの本を出したんだから、俺もテレマークの雑誌やビデオをやってもいいよな、お互いの住み分けを侵略しても問題ないよな、という事らしかった。
そもそも僕は住み分けなんて思ってもいなかったし、おもしそうなことに飛びつくという性格は細田よりも僕のほうが優っていると思っていた。ただ、細田はスタートは遅かったものの、スパートはなかなかのもので、何度も追い越された気がしていた。
その頃から細田は住まいを都心から奥多摩の御岳に移した。カヌーができる多摩川の近くだったからだろう。多摩川のカヌークラブにも参加していたようで、たまにテレビなどで見ることもあった。スラローム競技にも首を突っ込んでいたらしく、東京都カヌー連盟の仕事もしていたようだ。
断片的な話なのでよくはわからないが、当時、都知事だった青島幸男(*25)氏が主催する新宿御苑での会にも招待されていたが、都合が悪く行けなかったと聞いたことがある。どんな都合かわからないが、よほど重要な用事があったのだろう。
(*25)青島幸男=放送作家、タレント、俳優、参議院議員、東京都知事。故人。
ここに写った3人は園芸高校の同窓生である。左は細田 充、真ん中は私、中川祐二、右は峰岸久雄。峰岸は造園科の出身で地域のコンサル的な仕事をし、彼の事務所のスペースを展覧会などに使えるスペースとして提供していた。ここを利用して、僕は英国関連の写真展をした。次の企画ということになり、細田の写真展をしようと、3人の打ち合わせとなった。
僕はボエームの集会にあまり出なくなり、細田とも会う機会が少なくなっていた。たまに僕のところに地方から海産物などが届くと、帰り道に寄ってもらい、ついでだから飲むか、とたらふく飲んだことはあった。やがて細田は御岳の家を引き払い、同じ奥多摩の軍畑に茅葺きの家を借りた。
僕の母親が死んだとき、ボエームの友だちが何人も列席してくれたが細田は来ていなかった。友だちのひとりが、「細田さん、具合が悪いみたいですよ」。まさかとは思ったがどこが悪いのと聞くと、アルツハイマーらしいという。アルツハイマーは、直接命に関わる病気ではない。でも周りで介護する人は大変だ。
気になっていたので、女房とも相談し一度知らん顔し訪ねてみようということにした。
軍畑の家の場所を知らなかったこともあり、奥多摩へ用事があってきたけどついでに寄ってみるということにした。手土産をもっていくのはおかしい、途中のコンビニから電話をし、菓子を持って訪ねた。
その家は高台にあり、急斜面に張り付くように建っていた。細田は家の前に立ち手を振って合図をしてくれた。冬は凍るとちょっとオーバーだがアイゼンが欲しくなる程の道を登り、ガタピシするガラス戸を開けると土間があり、上がったところに囲炉裏があった。横座に座った細田は、まるでむかし通った丹沢水無川、仲小屋(*26)のオジイを思い起こさせるものがあった。
(*26)仲小屋=丹沢・水無川源流部にあった山小屋。本連載『【ユーさんの72年③】中川祐二、72年目のアウトドアノート~アウトドアに目覚める ── 其の弐 あるいは福永良夫氏のこと』に詳しい。
4人でお茶を飲みながら、むかし話に花を咲かせた。まったくいつもと変わりはなかった、僕が知っているむかしの細田のままだった。話の途中で、「俺、犬の散歩へ行ってくるわ」。すると「とうちゃん、まだ早いからいいよ」と細田の女房。それから10分もしないうちにまた「俺、犬の散歩行ってくるわ」と。
犬の散歩というより、犬に引っ張られて散歩へ出かけた。ここから3人の会話。
「いつもああなのよ、散歩の時間はもっと遅いのに」
「でもあんまり変わりはないみたいじゃない?」
「そうでもないの、もう運転はやめさせたし。ズボンを二枚重ねて履くのを見てびっくりしちゃった」
「ちょっと寂しそうな顔をしてるかな?」
「細田のお父さんもアルツだったのよね、俺、ああなるのかな、嫌だなって言っていたわよ」
「でも、ほかはどこもなんともないんだろ?」
「体調はいいみたいよ」
また近々来るよと約束し、細田宅を後にした。
数ヶ月後、細田の女房、かず子から電話が来た。本人が納得した上で入院したという連絡だった。
数週間後、かず子の了解を得た上でその病院を訪問した。担当医がいないので面会はできないと断られたが、家族の了解をもらっていること、高校時代からの同級生であることを言った。するとその婦長は「では、本人が会うかどうか聞いてきます」と言い、僕たちを応接室へ通した。すべてのドアは鍵がかけられ、応接室にも鍵をかけた。
しばらくして婦長が「会う気はないようです」と言いながら入ってきた。するとその扉の窓からのぞいている細田の顔が見えた。婦長を追いかけて来たのか、なにかを思い出したのか。「会っても大丈夫みたいですね」と言い、細田を応接室に入れ、婦長は出て行き鍵をかけた。
「いよー、元気そうじゃないか」
「うん、まあな」
そう言うと、僕が履いていたスリッパに書かれていたこの病院の名前を声を出して読み不思議そうな顔をした。病院にいるという意識がないのか、この病院のことを知っているのか、考えようとしているようだった。
高校時代の話、園芸高校の先生に会って飯をご馳走になった話。そのときの写真などを見せた。ほとんどの話は覚えていて、馬鹿な話で大笑いもした。ちょっとやせてはいたものの顔色はよく、元気そうだった。
翌年の秋、かず子から電話が来た。
「とうちゃんが死んだ」
2010年10月29日、細田 充は遠く旅立った。享年62歳。葬儀は親戚のほか親しい友人だけで執り行った。後日、細田 充君を忍ぶ会をグループドボエームの集会場であり、細田の結婚披露宴の会場としても使った、新宿の「ぼるが(*27)」で開いた。会場の入り口に掲げた横断幕「細田 充君を忍ぶ会」という文字は、勘亭流の達者な三橋賢二くんが書いた。
(*27)ぼるが=新宿西口、小田急ハルク裏にある居酒屋。戦後の闇市からスタートし現在に至っている。
僕は司会進行を買って出たが途中でパワーが切れ、このマガジンの担当編集者でもある宮川 哲くんに押し付け、飲むことに徹した。
遺骨は奥多摩の幕岩が見える墓地で樹木葬にした。桜の木の下で眠っている。
細田は梶井基次郎の『桜の樹の下には』(*28)という作品が好きだった。
(*28)『桜の樹の下には』=梶井基次郎の短編小説。桜の花が美しいのは樹の下に屍体が埋まっていて、その腐乱した液を桜の根が吸っているからだと想像する。散文詩とも言われる。
62年という現代においては短い人生だったが、細田がいなかったら僕の人生もちがったものになっていただろう。あれから10年以上が過ぎ、生きているということを大事にしようと神妙に考えながらこの項を終わる。