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【再定住】京都にて(前編)アクティビズムの潮流を訪ねる
2022.10.20 Thu
藍野裕之 ライター、編集者
2022年10月5日、北陸新幹線京都延伸の計画の白紙撤回を求める署名約2万7千人分が国に提出された。春に京都、岡崎公園で行なわれた[アースデイin京都]では、ステージに「北陸新幹線京都延伸を考える会」の4人があがったのを私は聞いていた。会は、通称「小浜〜京都ルート」と呼ばれる北陸新幹線延伸計画の白紙撤回を目指す市民の会である。全長約143kmの8割近くに及ぶ長さで、京都府の中央部を縦断するかのようにトンネルをぶち抜いて新幹線を通そうというのだから、たまったものではない。わたしは会のメンバーではないが活動には賛同している。東京から京都に移り住み、たかだか6年たらずの分際で京都人ぶるほど無恥ではない。ただ、いまの自分の居場所の環境が危機的な状況になってほしくないだけだ。バイオリージョナリズム(生命地域主義)がいう再定住(Rein habitation)が頭をよぎる。
京都の町衆は応仁の乱以来、御上のまつりごとを冷ややかに見送り、自家の経営に努力を集中してきた。しかし、今回ばかりは町衆のそんな気概もほどほどにしないといけない。この計画を白紙撤回できなかったら、それこそ京都人は自虐的なのかと日本中から笑われそうである。何しろ、トンネル工事ともなれば、発生土は880万立方メートル(10tダンプ160万台分)にもなると予想されている。どこからどこへ発生土を運ぶ気なのかは知らない。大型の工事車両を目する日は、長いあいだ続くだろう。また、それだけ大量の土を掘り出せば、地下の状況が激変することは子どもにだって想像がつく。京都府の地下には琵琶湖に匹敵する地底湖がある。トンネルにより地下水脈が変わるのは確実視されている。巨大トンネル工事は、地下水の流れを変えてしまうことが過去の工事を見ても明らかだ。清流が涸れたりしたら取り返しがつかない。製造に地下水を使う豆腐、生麩、酒といった京都を支えてきた食文化はどうなるのか。
ただでさえ京都市は財政破綻が現実味を帯びてきている。新幹線工事への市の負担金はハナっから当てにされてはいないが、文字通りの地盤沈下と伝統産業の沈下が重なれば、もはや古都の浮上は不可能だ。地盤沈下どころか古都沈没である。座談では、まず、この計画は政府主導ではなく、与党のプロジェクトチームが推進しようとしているのだと説明された。野党も共産党以外は追随しているという。本来ならば国会で議論すべきだが、それもなく、住民説明もされないのが現状なのだそうだ。わたしたちは‘70年代の土建行政の論理を、もうとうに見抜く力は備えたはずではなかったか。事情を知らせれば反対意見が出る。ならば詳しいことを知らせずに進めてしまえ。自立した市民より無知な大衆のほうが利権を貪る側には都合がいい。考える会に法律家や科学者が加わっているのは幸いだが、座談が進むほどに私の怒りは高まっていった。
わたしは『自然との共生』という言葉が嫌いだ
登壇者のひとりに、法然院31代貫主の梶田真章さんが法衣姿でいた。法然院は、浄土宗の開祖の法然が数人の弟子を伴って念仏三昧のために建てた草庵を起源にしている。浄土宗の大本山は東山の智恩院だが、法然院はそこから東北に上がった如意ヶ嶽の麓の森の中にある。如意ヶ嶽より大文字山という通称のほうが話は早い。五山の送り火の横綱、東山の大文字の直下。あたりは鹿ヶ谷という。タヌキ、イノシシ、シカ、ムササビが出没し、疎水分流にホタルが舞う。本山がパプリックならば草庵はプライベート。法然が自身で開いた宗派から離れて私的な修行のために建て、その後に荒れ果てた。それが江戸時代に再建され本山に組み入れられ、近代になって浄土宗の宗教法人を構成する末寺のひとつとなった。ところが1953年に本山から分かれ、単立の宗教法人としたのである。このいわば原点に帰る改革を行なったのは先代、梶田さんの実父だ。以来、「市民に開かれた寺」を旗印に活動を開始し、それを受け継いで、梶田さんの活動は通常の寺を超えている。本堂に当代一流の論客、音楽家、アーティストを招き市民の集いとして開放する。また、境外に法然院森のセンターを設けて自然保護の拠点とし、こちらには星野道夫、今森光彦といった自然派表現者、科学者、活動家を招いて市民との観察会、対話の会を開くのである。いまや、剃髪の温顔、低音の美声と活動は多くの人が知るところとなっている。
写真の古典的な技法であるアンブロタイプ(湿板写真)に美しい里山の風景をガラス板に写し込み、それを自らの手で割って銀継という手法で修復。「一度壊してしまったものは元には戻せないが、美しく修復することはできる」と作品に込めた想いを語る(写真:外山亮介)
梶田さんは、新幹線延伸工事計画にあたって地下水の危機に対する勉強会を法然院で開いてきたので、アースディin京都でどんな発言をするか気になって聞き耳をたてた。すると座談の冒頭にこういった。「わたしは『自然との共生』という言葉が嫌いです」。思わず身を乗り出してしまった。しかし、座談はその後、延伸工事計画が無謀で不誠実な計画かを説明するのに時間がかかり、梶田さんはほとんど発言しなかった。「自然との共生」ほど、いまの世間で大安売りされている言葉はない。S D Gsへ向けて、現状よりいくらか環境に配慮した切り替えで「自然との共生」と、まるで悪行を何でも洗い流す言葉かのように使っているのは大問題だと思ってきた。延伸工事計画も、「自然との共生を成立させる工事を目指す」などと始まりそうだからたまらない。それでも、梶田さんの発言からは反対運動の決起にとどまらず、議論がもっと根源的な自然観を問う方向に導かれていく予感がした。だが、座談はそちらには進まなかった。延伸工事計画の現状を伝えることに終始した。行政からの説明がない今の状況ではいたしかたないにしても、わたしは残念でならなかった。
昨年、京都グラフィの企画で行なわれたトンネルと題された外山亮介さんの写真展。外山さんは京都の京北に住む写真家で、『今回の「トンネル」展では、北陸新幹線の小浜—京都延伸計画の問題を、一人でも多くの人に知ってもらう事を目的としている』というように、この問題に関する展示には貸し出せないと、いくつかの会場に断られた末の開催だった。その後、パタゴニア京都店でも開催。
「自然との共生」とは。手がかりは生態学=エコロジーだろう。この学問は自然界の関係を調査・研究するものであり、まずは言葉の正確な意味を知らなければならない。生態学では、自然界に存在する共生関係を「片利共生」「相利共生」「中立共生」に分ける。片方にだけ利がある関係、お互い相通じて利を分かち合う関係、関係し合うことはない中立という関係で、あっちとこっちと、向こうとでは共生関係は違ってくるのを、生態学では大局的にしっかりと見ていくわけである。この程度は入門書にあることだが、いま世間に流布している「自然との共生」はどれを指しているのかわからない。それだけとっても、ムードだけを掻き立てていることは明らかである。これも入門書レベルのことだが、生態学では、まったく共生関係にない関係も規定している。「敵対」である。片方だけに利がある関係も共生だとしているのだから、たとえ甘い汁を吸い続ける者が一方的に収奪を続けても共生関係は成立してしまう。しかし、吸われている側がそれに気づいたときに敵対は始まり、いずれ臨界点を迎える。
このコロナ禍の時代、2兆円以上もの税金を使って、京都市内の真下にトンネル掘る新幹線って必要ですか? 自然は一度壊したら元には戻らないですよ。でもどうしたらいいのか……。(写真:外山亮介)
アースディが終わり、5月に入ると東山の新緑が萌え始めた。すると法然院から、また報せが届いた。龍村仁監督よる『地球交響曲〜ガイア・シンフォニー〜第9章』の上映会があるという。よし。わたしは鹿ヶ谷へ向かった。この映画は、ジェームズ・ラブロックの「地球はひとつの生命体である」とのガイア仮説を触発され、先住民活動家、アーティスト、学者など、生命体としての地球を脅かす現代文明に抗うかのように自然と密着した暮らしの実践者、提言者に密着し、’70年代のニューエイジ、ディープ・エコロジーの再燃を思わせる神々しい構成のドキュメンタリーだ。’90年代半ばに自主上映の方式で公開が始まり、熱心なファンを獲得してシリーズ化したが、今回で幕を閉じるという。じつは、わたしはすでに前月に大阪で観ていた。’90年代のガイア信奉者に似た精神主義的な女性たちが主催した自主上映会だった。梶田さんと話してみたいというほうが大きく法然院へと出かけた。訪ねると30人ほどが堂内に集まっていた。なんでこの映画を? その疑問は上映前の梶田さんの前説で解けた。監督の龍村家の菩提寺が法然院だということもあって、梶田さんは第1章から製作協力をしてきたというのである。
映画は第9章にちなんだのだろう、最終作品はベートーベンの交響曲第9番、いわゆる「第九」を基調にした構成になっていた。ベートーベンの解釈に関しては現代日本で右に出るものはいないといわれる指揮者“コバケン”こと小林研一郎が、この映画のために志願してきた楽器奏者と合唱者を束ね、「歓喜の歌」ともいわれるこの交響曲を自身の解釈で完成させていく。楽譜からここまで作者の意識が読み取れるものかと、コバケンの話に驚かされた。そして厳しい練習が続き、最後に観衆の前での演奏だ。この縦軸に、ふたりのインタビューがエピソードとして差し込まれるのである。わたしは’97年に第3章を観た。それ以前の作品もそれ以後の作品も観ていない。むしろ、避けてきた。独特の神々しい演出に違和感を持ったのだ。それでもなぜ観に行ったのかといえば、スティーヴン・ミズンが出演していたからだ。ヒトの心がいかに発達してきたか、証拠が出にくい先史時代まで遡っていく認知考古学を標榜する学者だ。わたしは、その著作『歌うネアンデルタール』に記された主張に関心が高まっていたのである。
音楽が人の脳を大きくした
ネアンデルタールは、われわれ現代人=ホモ・サピエンスとほぼ同じ大きさの脳を持っていた。しかし、どうやら言葉を持たなかったらしい。人類の脳を大きくした要因は言葉ではないことがわかるとともに、では、どのように意思を伝えていたのかという疑問が浮かんでくる。それは音楽だとミズンはいう。同書の副題は「音楽と言語から見るヒトの進化」なのである。「歌」というと誤解が生じやすい。言葉、つまり詩がないからだ。しかし、詩のない音楽で意思や意識を伝え合い、暮らしを成り立たせていたのである。反対にサピエンスは言葉を持った。それは7万年前のことで、まだアフリカにいたときだ。やがてネアンデルタールとサピエンスはヨーロッパで出会い、一方は絶滅し、一方は現代まで生き残っていったのだ。
言葉を持ったことによって「認知爆発」が起こったとミズンは考えた。言葉は何ごとにも意味を付け、また何かを何かにたとえる比喩の力を生み出し、それがアートなどを創り出す創造力の原動力になったというのだ。加えて、社会ネットワークの強化能力と拡大能力である。ネアンデルタールとサピエンスの生存能力に違いが出たのは、この社会ネットワークの違いからだという。ミズンが仮説を盛り込みながらセンセーショナルな著作を世に放ったのは’90年代から2000年代である。一貫した関心は人類の心の起源と進化だ。心という得体の知れないものを、骨と遺物からたどろうというのだから容易ではない。それでも、この果敢なアプローチは日本のサル学者も含めた世界中の人類学者を大いに刺激したようだ。そして、言葉である。いまでは、言葉による認知爆発は諸刃の剣で、アートを生んだり、会ったこともない相手と交信できたりして社会ネットワークを拡大強化したが、同時に意味を分断して容易に敵をつくる能力も授けてしまった。そう指摘する人類学者もいる。ここで再浮上するのが言葉を持たなかったネアンデルタールの音楽的コミュニケーションだ。言葉に頼りすぎてはいけない。そんな示唆がある。何しろ、サピエンスとネアンデルタールは混血し、アフリカのサハラ以南の人びと以外の現代人にはネアンデルタールの遺伝子が受け継がれているのである。
『地球交響曲』では、ミズンが日本縦断の旅をし、沖縄の石垣島、奈良の吉野、北海道の白老で伝統的な儀式を訪ねる。飄々とした風貌で、「この儀式の痕跡がどのように大地に刻まれるか」などと考古学者らしい発言も記録されていた。映画全体としては神々しい演出は薄まったように感じられた。もしかしたら時代が変わったからもしれない。シリーズが始まったのは、20世紀末の混乱があった。俗と聖とのせめぎ合い。そして、このシリーズは聖なるものを描く作品として位置付けられていった。いまはどうか。科学の入り込めない領域が聖なるものとされてきたが、ミズンらの人類学者たちが聖なるものを生み出す心の問題を深掘りしていったのである。これまで宗教が担ってきたその領域に、人類学という科学が足を踏み入れ、その成果にすでに一定の普及があるのではないか。認知考古学に注目してきたわけではないわたしのような者にも、知らず知らずのうちに彼らの成果が届いていたのではないか。この20年で高画質の映像作品が小さな機材で撮れるようになり、ネットにアップロードすれば多くの人が見ることもできるし、場合によってはそれで収益もあげられる。時代は変わったのだ。まして龍村仁監督は今年82歳である。シリーズ作品の幕を引こうとしたのには、映像作品の状況変化や自身の年齢とともに、学術の成果によって聖域が少しずつ聖域でなくなってきているかでもあるのではなかろうか。
映画は、ミズンの旅を挟みながらコバケンの交響曲第9番が次第に仕上がっていく。そして終盤、もうひとり登場し、短いながら自説を語る。先般ノーベル生理学・医学賞を受賞した京大特別教授の本庶佑。「がんの免疫療法」に代表されるように、この人の研究は抗体を生み出して免疫力を高めるという、いわばその人に体内に眠っている治癒力を引き上げていく医学である。「医学というのは、病気を治すのではなく、治そうという力を目覚めさせるもの」。収録された発言が少なく、かえって言葉が際立つ。驚いたのはインタビューの収録場所が法然院だったことだ。本庶家の墓も法然院にあることが映画で明かされていた。富山県にあった両親の墓を移したのだという。痩身のノーベル賞受賞者とも梶田さんも出演していた。梶田さんの読経がプロローグのようになり、いよいよ交響曲第9番の演奏である。そして、最終作品のもっとも伝えたいメッセージと思しきひと言がナレーションで入った。「音楽は最高のコミュニケーション」。
上映後、30人ほどの客が散り散りに帰途につく中、堂内にしつらえた映写機材を片付けている梶田さんに名乗り出た。「元気でしたか?」と受け応えは優しい。「アースディの日のひと言が気になっていまして、本意を少し教えてくだいませんか」と問うた。すると、次のような答えが返ってきた。
「ある生き物と人間との共生というのはいいんです。これは仏教でいう縁です。しかし、自然全体と人間を対比させて共生をいうのはおかしい。なぜなら人間も自然の一部だからです。生きとし生けるものひとつひとつとの共生関係、縁を考えていくような考え方がいいと思うんです」。
映画を観た後だけに、やっぱり言葉の弊害なのかもしれない、と思った。言葉は分断を生む。ひとつの言葉を理解しようするとき、対義語をあてて二項対立をつくると鮮やかなキレが生まれる。キレといえば聞こえはいいが、要するに論理が明快になるのである。だが、明快な論理のために人間の思考の癖につけ込んだ罠にもなり得る。「自然と人間」、「共生と敵対」……。それでも、人新世=近現代の人間は自然と敵対していると考えるべきなのではないか。梶田さんのお話を聞いた後でも、わたしは、なかなかその意識から脱することができないでいた。それは、現代の大きな危機が気候変動だからでもある。
梅雨入り前に法然院の近くから大文字山に登った。送り火の日に大の字となるように中腹は草木が刈られて火床が点々と並んでいる。そこまで登ると京都市中がほぼ一望できる。洛北は緑が多い。洛北の森の中には総合地球環境学研究所がある。2002年に創設された国立の研究所で、「環境問題は人間の文化の問題である」を旗印に、理系と文系の精鋭たちが集って研究し、多くの提言を続けている。昨年までこの地球研の所長だった安成哲三さんを招き、お話を聞く会を開いた。安成さんは登山家、探検家で、それを極めるために気象学、気候学を始め、やがてその道の国際的リーダーとなった。講話の冒頭、安成さんは地球の構造を知らせるため「生命圏」と「大気圏」に分けて解説した。生命圏とは、地表を起点にわずかな土中、川の中、空中、そして海中に棲息する生命がつくりだす世界で、大気圏は気象現象や気候をつくり出す、いわば宇宙と地球との間に存在する天空世界である。気候変動は生命圏の変化が大気圏に影響して起こる。生命圏と大気圏の対置をきっかけに、自然と人間という対置に発展し、わたしは疑いを持ちながらも「自然との共生」をある程度受け入れてきてしまっていたのだ。
安成さんは、講話の中で生命圏と大気圏の影響し合う関係を、最新著『地球気候学』で初表出の「共進化」だとして提示した。すると、同席していた生物学者から猛烈な反論が湧きあがった。進化というなら弱者は淘汰されなければならない。大気圏の気象や気候に淘汰はない。だから、共進化は無理がある。というわけだ。この反論を安成さんは受け止め、共進化を取りさげた。白熱した論戦にはハラハラさせられたが、論者たちの真剣さと真摯な態度には胸打たれた。そして、「進化」とは生命圏の論理であり、そこでの「変化」は必ず大気圏に影響する、と理解できたことがまずうれしかった。再び梶田さんの言葉が思い浮かんだ。さらに日本の仏教が生んだ文言が浮かんだ。草木国土悉皆成仏----。草や木など生きものはもちろんのこと宇宙を構成するすべてのものが成仏できる、すなわち命があるという法華一乗、平安時代に比叡山で磨かれ築きあげられた日本仏教の根本思想である。となれば大気圏にも命が宿っていることになるが、それは生命ではないことをわれわれは知っている。ただ、縁あるものとして命あるかの如く意識することは可能なはずだ。縁はあるが、その縁は相手によって違い、総体として地球は複雑系として出来上がっているのだ。分断して理解した気になる前に、複雑系を紐解き直す労力を惜しまず、ひとつ、またひとつと共生関係の築き直しへ向かっていかねばならないのだろう。
6月もなかばになると法然院のあたりにホタルが舞い始める。哲学の道に沿って疎水分流に琵琶湖の水が流れているのだ。わたしは陽が落ちるのを待って哲学の道を散歩に出かけた。哲学の道は、京都大学教授も務めた哲学者の西田幾多郎(1870〜1945)がこのあたり暮らし、日々歩きながら思索したのが由来である。哲学の道には法然院森のセンターがある。梶田さんらが自然保護運動の拠点である。何度も訪ねていたのだが、この建物が法然院の境外堂にも位置づけられ、「共生き堂」という別名があることを初めて知った。複雑系である生態系を学ぶ施設を、「ともいき」としていることに思わず膝を打ってしまった。「共生」ではなく、「き」を添えている。浄土宗は、大正から昭和40年代にかけて活躍した学僧にしてアクティビストの椎尾弁匡を輩出したのである。「共生」という語は、植物学者の三好学が明治の半ばにsymbiosisの訳語として論文に使ったのが日本最初だが、学術用語から離れて使って講演、著作を残したのは椎尾が最初なのだ。椎尾は1922年(大正11)、浄土宗に「共生会」をつくって仏教の教えを現代に生かそうという活動を始めた。それが「共生運動」だ。椎尾は「共生=ともいき」と読ませた。そして、共生とは仏教の根幹である「縁」とした。人種・民族を超えた共生と人間社会のあり方への説法が多かったが、そこに森羅万象のひとつひとつへの眼差しも感じられる。これほどの先達の存在があったのだから、梶田さんが「共生」に関して物申すのも当たり前だったのである。
ホタルの時期が過ぎると呆気なく梅雨が明けた。異常な早さだった。しかし、7月になってすぐに例年だと梅雨の終わりに降るような大雨が各地を襲った。その日、京都も豪雨だった。雨に濡れ濡れ、わたしは地球研に向かった。ゴリラ研究で名高い山極壽一さんに会うためだ。安成さんの退任後、地球研の所長に就任したのが山極さんである。話はまず『レジリエンス人類史』に関連するところから始まった。山極さんらが編者となり、総勢25人の精鋭が寄稿する大著だ。レジリエンスとは、緩やかな復元力という意味だ。人間は進化の過程で、危機に瀕すると賢く復元力を発揮して生き延びてきたという。その力や力の根源を探り当て、現代の危機を乗り越える道の提示を狙った果敢な挑戦の書でもある。「批判するだけではダメだからね」と山極さんはさり気なくいった。地球環境の危機を指してのことだ。その原因を突き止め、政府や企業を批判する以上に、学術の役割は問題解決の答えを提示することだというわけである。とかく批判活動こそわが使命と考えかがちなわたしとしては頭が下がる思いだった。読み進めるのに難儀する大著だが、確かにヒントはたくさん散りばめられている。森羅万象のすべてを命あるものと考え、人間も自然の一部と考える思想は西洋由来の科学にはないとされてきた。しかし、最近の生態学は違ってきていることも知った。人間を自然の一部に据え、あるときは自然破壊を行ない、その反省のように自然再生に執心するケッタイな存在として位置づけ始めたのだ。また、こんな知見も得た。サピエンスは南極大陸以外の全大陸だけではなく、太平洋の島々にまで移住した。他の生物はそれまでとまったく違う環境に進出すると、自らを変えて環境に適合する。こうして種が変わる進化が起こる。しかし、サピエンスは広大な地域に拡散しながら一種であり続けた。衣食住を環境に合わせてつくり変える知恵を持ったこととともに、自らを環境に合わせるのではなく、他の生物は持ち得ない環境を改変する力を持ったからだという。
バイオリージョナリズムという生き方
また、山極さんは「バイオリージョナリズム」を口にした。この’70年代初頭にアメリカ西海岸で提唱された思想は、陸上生態系の中心に川を据えという、いわば流域の思想である。人間は川に沿って集落をつくり、上流、中流、下流とは連携していた。しかし、やがて行政区分が生まれ、川の流れに沿った連携は機能しなくなった。それを見直して、川を生態系の中心にリージョン=地域を考え、人間はその一部として連携しながら暮らしを立て直そうという主張がバイオリージョナリズムだ。そのため、生態系を無視した行政区分を成立させた近代思想、近代以降の権力への対抗運動へと発展したのである。山極さんも対抗運動への関心は高いようだが、学術と現実的な環境保全を実装しようという立場から、行政区分を越えた治水と利水、それにともなう治山の道を説いた。一方のわたしは対抗運動のほうに関心が向いている。それは、バイオリージョナリズムの思想と運動を牽引したのが、ビートやヒッピーといわれた対抗文化=カウンターカルチャーの担い手たちだからである。
詩人のゲーリー・スナイダー(1930〜)は、文学史的にはビートジェネレーションと評される一群の思想家、表現者たちのひとりで、バイオリージョナリズムの牽引者であり実践者だ。わたしは山極さんと会った後、『聖なる地球のつどいかな』を読み直してみた。ゲーリーと山尾三省(1935〜2002)の対話集である。ゲーリーは1956年から12年も、その間にインドを旅したりしながら日本で暮らしていた。その時期、三省と出会い、親交を深めたという。やがてシェラネバダ山脈の山中と屋久島に離れて住みながら、ともに自然の一部として暮らそうという実践をしながら詩作を続けた。同書はふたりが30年ぶりの再会の対話で、両者の軌跡も知る手助けとして脚註が添えられている。そのひとつに、わたしは妙に引っかかった。それが、この文章の冒頭に掲げた「再定住」である。バイオリージョナリズムでは、川を中心に据えた生命のコミュニティに、その一員として住まうあり方を再定住としている。それを補足する脚註は、こうあった。「バイオリージョナリズムは具体的な場所を生きることを要求する。すなわち、この考えによれば、ひとつの場所に住み、環境という視点から自らを再教育し、植物、土壌、動物、あるいは気候などに関する知識を獲得しつつ生態系に対する人間の責任を確認することが重要なのである。このような生き方は、移動を続ける生活とは正反対の生き方であり、場所に定住することは、人間が場所を喪失したルーツレスな状況を呈する現代文明批判ともなっている。生態地域主義(バイオリージョナリズムを同所ではこう訳している)者はこのような生き方を再定住(リイン ハビテイション)と呼ぶ」
わたしが引っかかったのは、再定住を「移動を続ける生活とは正反対の生き方」としているところである。それはゲーリーと三省の対話を読み進めると解消されはした。ふたりはともに、生まれ育った場所を離れ、旅を栖とし、移動を繰り返してきた時期がある。そして、再び落ち着く場所を探し当て、そこでの暮らしを始める際にバイオリージョナリズムに行き着いた。そして、落ち着く場所を見つけても移動を否定しているわけではない。たぶん、彼らは仮に1週間しか滞在しない旅先でも可能な限りバイオリージョナリズムを実践しようとすると思う。ただ、脚註の執筆者が激しさをもって書いたのも無理もないことだとも思った。何しろ、同書は1997年に編まれたのだ。当時はインターネットも普及とまではいっておらず、仕事をして暮らしを立てようとすれば、生態系など無視したルーツレスな浮遊者としてでも同じ場所に住み続けるほかなかった。それがどうだ。いまではインターネットがテレワークを実現し、場所と仕事との関係が大きく変化した。移住がいとも簡単にできる。わたしの場合は京都を避難所としたところがあるが、それでも慣れ親しんだ場所を離れて住み始めたとき、気候、草木、動物、川を知ることに懸命になった。それは、八百屋や魚屋のありかを探すことと同質で、住むうえでどうしても必要なことだったのだ。だから、移動と再定住は正反対のことではなく、じつは連続した親和性の高いものなのだと思う。