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【ユーさんの74年_18】中川祐二、74年目のアウトドアノート〜米作りの仲間を募り、「TKOもてぎ」を組織した。あれから25年……。
2023.04.13 Thu
中川祐二 物書き・フォトグラファー
1993年、そんなことになるとはつゆ知らず、僕はこの年の春から米作りを始めていた。
そんなことというのは、記録的な天候不順、冷夏で日本全体が米不足に陥り、海外から米を輸入するという事態になったこと。その年1993年、僕は「米を作ることにしてしまった(*1)」。おかげさまで、わが家では米不足とは無縁の年を過ごすことができた。
(*1)米を作ることにしてしまった=前回の【ユーさんの74年_17】の「米を作ることにしてしまった。」に詳しい。1993年は記録的な不作に見舞われ、政府は米の緊急輸入を決めるなど、社会的に混乱した年だった。
茂木町ハトムナイの棚田。土地改良がなされ、小さな田んぼは統合され大きくなってはいるが棚田であることに変わりはない。これは梅雨時、小雨に煙っている棚田の風景。湿った空気、田んぼの匂い、思わず深呼吸をしてしまう。
辛い仕事の1年だったが、いま思うと大型のトラクター(*2)を運転し田を耕し、田植え機で稲を植え、やったことがない仕事ばかりで新鮮な驚きが多かったのも事実だ。
(*2)トラクター=一般には農器具だけでなく、トレーラーなどを引っ張る牽引車両をさす言葉。農業用のトラクターは大型の車輪に馬力のある大きなエンジンを装備し、ぬかるんだ田んぼでも自在に動けるような仕組みになっている。さまざまな農機具を付け替えながらの作業ができる。
とくに初めのころは10時と3時のお茶をいただくことが、こんなに気持ちのいいことだとはまったく思わなかった。お昼を田んぼの脇の草の上で食べるなんて都会の者には経験できないこと。天気のいい日に、ヒバリのさえずりを聞きながら植え終わった田んぼを眺めるなんて、至福のときである。
農家の人たちは、腹にかなり正確な時計を持っている。10時になると必ずお茶のペットボトルを出し、菓子パンなどを頬張っている。3時も然りである。お盆に急須、茶碗を乗せ魔法瓶を持ってくる人もいる。
僕のように何にも用意していないと、これを食べろとあんぱんや大福、リポビタンDなどをくれる。隣の田んぼのおばあちゃんは、いつも自転車のカゴにこれらが多めに入れてあるようだった。
お昼になると、たぶん腕時計は持っているのだろうが、12時ぴったりに軽トラを運転してうちへ戻る。
そのとき僕を見つけると、「おーい、ユーさん、お昼だ!」と声を掛けてくれる。
僕は生活の基盤をここには持っていないので、車で近所の定食屋へ食べに行くか、買ってきたお弁当を食べることになる。親方田村さんの奥さんが田んぼまでお昼を持ってきてくれたり、お宅に用意してくれることも多かった。
7月中下旬、梅雨明けして晴れの日が多くなると稲の花が咲き始める。稲はもともと高温を好む植物、いちばん暑いときに開花受粉する性質を持っているようだ。それにしても地味な花だ。
田村さんが素人の僕に山を使わせてくれたり、田んぼをやらせたのは、米作りをひとつのイベントにし、地域、町を活性化しようと考えたこと。米作りの技術を継承しつつ、中山間地域(*3)の自然環境を守ろうとしていたのだと思う。田んぼはダムだ、水を貯め徐々に川へと流す。巨額を費やし巨大なダムをつくるより、田んぼを整備したほうがローインパクトだ。
(*3)中山間地域=日本の農林統計上の地域区分のひとつ。平地から山間地にかけての地域をさし、都市部はその範疇には入らない。
そこで僕は、この田んぼでの米作りを僕ひとりでやるのではなく仲間に声を掛けることにした。当時、僕はアウトドア系の『BE-PAL』(*4)という雑誌の仕事をしていた。雑誌の企画で米作りをすれば、雑木林でのキャンプ生活などの楽しさはもちろん、自然環境の大切さ、安全に食べられる食料のこと、ひいては食料自給率(*5)なんてこともアピールできそうだった。
(*4)『BE-PAL』=1981年に小学館から創刊されたアウトドア雑誌。(*5)食料自給率=本来は、消費される食料のうち、国内での生産分の割合をさす。ここでは「自宅内」での食料自給率も兼ねる!?
歩行二条植え田植え機で植えるのだが、機械でも失敗は随分ある。苗の本数が少ないもの、植えた努力のみのもの、ちょっと植えるのをお休みしてしまったもの。半分以上はオペレーター(僕)の技量不足が原因なのだが。それを補足するためみなが順番に並び、機械の失敗を探し補植していく。腰を曲げ、歩きにくい田んぼの中を歩きながらの作業はかなり辛い。しかしこれが田んぼ感を高め、ご飯をさらにおいしく感じさせる妙薬(?)か。
翌年、田植えからその企画は始まった。単に素人が増えただけなので手間はそれなりに掛かった。雑誌で細かく追ったわけではなかったが、田んぼの周りの植物、生物などの採集、山の中のキャンプ生活などをレポートした。スタッフはやり慣れない作業を手伝い、それなりに楽しんでいた。僕にとっては労働力が増え、多少は楽な1年となった。
しかしこれを次の年も続けることはありえない。そこで今度は友人たちに、安全な米を手に入れるため、そして家庭内食料自給率を上げるため、1年間を通して田んぼ作業をしようと声を掛けた。
集まったのはこの地域を紹介してくれた編集者、グラフィックデザイナー、学校事務員、コンピュータプログラマーなど、5、6人が集まった。
当時日本は、紛争国での国際連合平和維持活動(*6)を展開していた。テレビでも盛んにこの略語である“PKO”なる言葉を使っていた。平和維持活動か、ならば僕たちは自然環境保護のため田んぼを維持する活動だから、このグループを“Tanbo Keeping Operetions”略して“TKO”と命名した。TKOなる芸人(*7)がいることは当時知らなかった。
(*6)国際連合平和維持活動=“United Nations Peacekeeping Operations”を略して“PKO”。日本では1992年6月に成立した関連の法律にもとづき、第2次アンゴラ監視団への派遣が最初。(*7)TKOなる芸人=1990年に結成された大阪のお笑いコンビ“TKO”のこと。
2年間、米をつくってみて、今のままの米作りではほとんど金は入ってこないことがわかった。初めから儲けようとしたわけではなかったが、自分たちが食べる米は手に入れたが、交通費や飯代はともかく、それ以外に資金をそれぞれが出すようじゃ長くは続けられないだろうと思った。
そこでつくった米を売ろうと考えた。もちろん僕たち素人軍団が売ろうとしてもできない。田村さん経由で農協に売っても高くは売れない。付加価値をつけ、米を買ってもらうと同時に、安全な低農薬米をつくり、里山の環境を保護し、田んぼを維持する活動に賛同してもらうという名目でファンをつくろうとした。
趣旨に賛同してくれた方々に送る「TKOもてぎ」セット。10月初旬までには発送した。さらに米だけの注文ももらい、1、4、7月にも追加発送。重いものを運ぶ手間が省けると喜ばれた。
単に米だけを売るのではなく、この地域の産物を入れ、セットで売ることにした。中身は米10キロ、近所の山で栽培されているユズ、町中でつくっている乾麺、干し椎茸、ブルーベリージャム。ほかに米の付いた稲穂、年によりユズ農家のおばあちゃんがつくってくれるわら草履を入れることもあった。これらを段ボールに入れ「TKOセット(*8)」として販売した。
(*8)TKOセット=低農薬米10キロ、柚子、干し椎茸、地元製麺会社の乾麺、地元産ブルーベリージャムなど、地元の農産品、特産物をぎっしりと詰め込んだ「茂木セット」でもある。
さらに米の欲しい人には10キロパックを3個を送る「青田買いセット」というのをつくった。青田買いとは、その年の稲の収穫前に収穫があるものと仮定し先買いすること。いわゆる先物取引だ。TKOセットも、青田買いセットも新年度が始まった時点で買っていただくという先物取引。何しろ資金ゼロで始めた農業グループだから軍資金がないと何もできない。
まあ、そんなことはないだろうとは思ってのことだが、もし米が不作で収穫がなかった場合、このTKOはテクニカルノックアウト(*9)と解釈していただき、お金は返しませんがタオルだけ送ろうと冗談半分に話していた。もちろんタオルを送ったことは一度もなかった。
(*9)テクニカルノックアウト=“Technical Knockout”。つまり、ボクシングでレフェリーに宣告されるアレである。正確には「タオルの投げ入れ」は、セコンドが「もうダメだ!」としてボクサーを棄権させる場合の行為。
当時、富山県の川崎商店(*10)が食管法(*11)に逆らって米の安売りをしていた。消費者はうまくて安いと川崎商店を応援した。川崎さんは食糧庁(*12)に押しかけ直訴した。1991年のこと。結局、彼は有罪判決を受ける(*13)が、食管法の矛盾を突き1995年、農家が自由に米を売れるようになった。
(*10)川崎商店=富山の米農家。1991年当時、社長の川崎磯信さんは米穀店を開き、あえて「ヤミ米」の販売を開始した。(*11)食管法=食糧管理法。米の価格や需給を国が管理する法律。1995年には廃止に。(*12)食糧庁=農林水産省の外局のひとつで、当時、主要食料の管理や生産、流通などの調整を行なった。2003年には廃止。(*13)有罪判決を受ける=減反政策への反発から農協での買い入れを拒否された川崎磯信さんは、みずから川崎商店を立ち上げ、「ヤミ米」の販売を開始。1991年に食糧庁に押しかけ、自分を告発するように直訴した。1995年に食管法と酒税法違反で有罪判決を受けたものの、食管法の矛盾を判決で認めさせている。
ちょうどそのころ、TKOを立ち上げた。僕が46歳のころだった。当時、僕はいくつかの雑誌や新聞に連載をもらっていた。そのなかに、米作りのことを書き、売っていることを大っぴらに書いていた。規模は小さいものの、川崎商店と同じようなことをしていたことになる。それを見てつかまえにくるなら受けて立とう、食管法の矛盾や、農協の流通の不思議など僕も腑に落ちないと思うことがたくさんあった。
残念ながら逮捕もされず、米を売り続けられたのであった。
みなが泊まるキャンプデッキを増設した。デッキは3台になった。ここで寝泊まりをして、田んぼへと通うことになった。
もちろんみんな素人である。僕よりずっとずっと素人、僕はここで2年間のアドバンテージがある。そのため自分の作業をするのはもちろんだが、みなの仕事の割り振りを考えなくてはならない。
そのころには8畝(*14)の田んぼだけではなく、近所の田んぼも借り、耕作面積を増やし3反2畝(*15)になっていた。およそ1,000坪、一枚にしたら嫌になるほどの広さだ。緩い棚田に飛び飛びに3枚の田んぼがあり、その日に来た人に仕事を説明し、割り振った。
(*14)8畝=畝(せ)は、土地の面積を表す単位のこと。尺貫法の単位で、1畝は歩(ぶ)=坪の30倍。なので、8畝は、およそ240坪となる。(*15)3反2畝=反(たん)も、土地の面積を表す単位のこと。10畝で1反となる。なので、3反2畝を坪換算すると、およそ960坪に。おそろしく広い。
夕方、近所の温泉へ行くか、街のスーパーへ買い出しに出掛けた。スーパーは夕方になると食料のパックに割引のシールを貼る。早く行きすぎるとまだ貼られてなく、遅すぎるとろくなものが残っていないという憂き目に遭う。その時間も考えながら、お風呂を先にするかスーパーを先にするか悩むのである。みながそれぞれ気に入ったものを買い込み、デッキで焚き火をしながら一杯飲み、食べ、テントで寝た。
この地方の大きな農家の入り口によく見かける長屋門。もともとは上級武士の住宅の表門として江戸時代に多く建てられた。その後、富裕な農家でもつくられるようになった。門の両側に部屋があり、使用人の住居、納屋、作業所などとして利用された。若い衆の遊び場としても使われたとか。となると、昔と今の利用法はまったく変わっていない。
田村さんの家は高台にある。そのため屋号(*16)は「ダイ」。地元の人は「デエ」と呼んだ。入り口には長屋門(*17)があり農機具や肥料、薬品などを保管していた。門の通路の両側に部屋があった。その片側に入っていたものを片付け、床を張り、だるまストーブ(*18)を置き、部屋をつくった。この部屋を僕たちに開放してくれた。10人は楽に寝られる広さがあった。寝袋さえ持ってくれば、天気を気にすることなく、寒い日でも安心して生活できた。みなといっしょなので、ひとり星空を見ながらいっぱいやるというような楽しみはしづらくなった。
(*16)屋号=家号とも。古くから各地方に伝わる呼び名で、苗字の代わりに用いられる。代々の家業や屋敷の建つ地形などをもとにしたものが多い。(*17)長屋門=日本家屋で使用される門形のひとつ。門の左右に長屋を備え、物置や小部屋として利用する。格式の高い武士や大地主などの屋敷によく見られる。(*18)だるまストーブ=丸い形状の鋳鉄製の石炭ストーブのこと。そのかたちからだるまストーブと呼んだ。ここでは石炭を使わず、薪を燃料として使った。
月に1回程度、田んぼの周りの草を刈り、稲に追肥をし、水を調節し、出穂し始めると今年の収穫はどのくらいかと心配になる。自分たちの米は確保し、それ以外の米は売り、肥料や稲代など、田村さんに肩代わりしてもらっている「借金」返済に当てなくてはならない。
8月末から9月になると台風の襲来が気になる。せっかく稲が実っても、天気が悪いと稲刈りができず、おまけに倒伏(*19)してくることもある。田植えより稲刈りはいつも悩みの種だった。天気が続いてくれればコンバイン(*20)が田んぼの中に入れるのだが、ぬかるんでいると、機械が入れないばかりか、田植えのときと同じ長靴を履き、手で刈ることになる。
(*19)倒伏=稲穂が風雨などにより倒れてしまうこと。(*20)コンバイン=稲の刈り取り、脱穀、選別などの作業を一台でできる農業用の車輌。
近所の人からは「ユーさん、秋に田植えかい?」とからかわれる。
初めのころのコンバインは、刈った米を袋にため、いっぱいになると担いでそれをトラックに運んだ。途中からは、コンバインから直接パイプでトラックに排出する最新型に変わったので作業はぐんと楽になった。
春はレンゲの花が咲くと田植えが始まり、秋、彼岸花が咲き始めると稲刈りのスタートだ。つくづく日本の農業は自然に教わっているのだなと思う。だんだんとコンバインの性能がよくなり、多少倒れてしまった稲でも難なく起こし刈ってくれる。“combine”とは結合するという意味だが、農業機械では刈り取り、脱穀、選別、ワラの切断と複数の作業をしてくれる。脱穀された籾を長いパイプで輸送用トラックに排出してくれるため、籾運搬の重労働がなくなり楽になった。
稲刈りは多少辛くても米を収穫するという喜びがあり、楽しくもある作業だった。ただ、それだけではなくほかにも楽しみがあった。全体のディレクターである僕はみなの作業の進み具合を見て、ある計画を毎年実行することになる。
稲刈りの数日間の最終日は2~3時ごろには作業が終えるように調整しなくてはならない。なぜなら、近くにおいしい鰻屋があり、そこで打ち上げをすることが毎年の行事となっている。
この鰻屋、なかなか入りにくい店。なぜならいつも暖簾が内側にかかっているからである。知らない人は休みかと思い入れない。もちろん僕たちは予約しているので、時間になれば堂々と入っていく。
初めて行ったとき、僕は失敗した。予約した時間に行ったら、女将は気を利かせたのか、正直すぎたのか、テーブルに人数分の鰻重が並んでいた。これは酒好きにとっては悲しいことで、「さあ、お食べなさい」とばかりになっていた。僕たちは、とくに僕と田村さんは一杯やってから鰻をいただきたいと思っていたのだがそれができない。できないことはないが、鰻重が冷めてしまう。
翌年からディレクターは画策した。電話で4時に人数分の予約をし、3時に店に行くのである。この店は小さなスーパーもやっていて、そのスーパーで豆腐などつまみになるものを買い、打ち上げが始まる。ちょうどいいころに鰻重が運ばれてくる。農作業の心地よい疲労、収穫の満足感、秋の夕暮れのなかで食べる鰻重は、この世のものとは思えないおいしさだった。
この後、作業はまだまだある。自分がつくった米を食べるには時間がかかるのだ。乾燥機(*21)に入れた米は一晩かけて水分量が14%程度になるまで乾燥させる。これを籾摺り機(*22)に入れ籾殻を外し、ゴミを除去し、30キロの紙の米袋に入れて第一段階は終了。この時点で米は玄米の状態。もちろんこのままでも食べられるが、売る米は精米することが多い。
(*21)乾燥機=籾米を乾燥たせるための専用の農機具。(*22)籾摺り機=籾から籾殻を取り除いで、玄米にするための農機具。
コンバインから排出した籾を左側の乾燥機に入れ、温風を当ておよそ一晩かけて水分が14%になるまで乾燥させる。それを手前の籾摺り機に入れ、籾を外し、重さを測り紙袋に入れる。ほとんど自動でやってくれるのだが、袋詰めした30キロの袋を何十袋も移動させるというのは腰に負担のかかる作業だった。
精米は町の米屋に持ち込み、胴割れ米や砕米、小石など(*23)を取り除き10キロの袋に入れ終了。これで商品となり「TKO米」として売れる。
(*23)胴割れ米や砕米、小石など=脱穀や籾摺り、精米の段階で米粒が割れてしまったり、粉々になってしまうこともある。また、米粒と同じくらいのサイズの小石などが混ざり込むこともあり、袋入れの際には取り除く努力を必要とすることも。
刈り終わった田んぼは軽くトラクターで耕し、翌年のために土を寒ざらし(*24)にする。作業が終わった棚田はあれほどエンジン音が響いていたのに、今はシーンとなり、カエルの声も鳥の鳴き声もしなくなる。寂しささえ感じる田んぼだ。
(*24)寒ざらし=土の中までしっかりと掘り起こし、冬の寒気に晒すことで土中の菌を減らすなど、地力を回復させる行為。
僕はこれを25回繰り返した。つまり25年間、米作りをした。当然、25歳分の年をとった。機械化が進んだといっても若いころの体力は25年の歳月が持っていってしまった。
腰痛がひどくなり、通院しながらの作業は辛かった。もうそろそろ、やめなくてはならないとは考えていた。しかし、どのタイミングで言うのか悩んでいた。稲刈りが終わると、そのすぐ後に翌年の準備が始まる。したがって、稲刈りの直後に言わなくてはならない。そしてこの「TKOもてぎ」という組織も次世代にバトンタッチをしなくてはならない。
もうこの時点で初期のメンバーはほとんどいなくなり、次世代のメンバーがやっていた。大手電機メーカーの社員、内装工務店監督、原子力関係職員、宝石商が最後まで付き合ってくれた。
20数回目の田植え前。年寄りらしく真っ赤なツナギは「TKO ELDERS」の制服。これから始まる4ヶ月の田んぼでの格闘はもう慣れたものだが、いつこの組織にピリオドを打つか、悩み多い春の1日。
数年前から今までの「TKOもてぎ」という名称を「TKO ELDERS」、つまり「TKOのジジイたち」という名前に変えた。
25年間も食べてきた茂木の棚田の米はすっかり僕の舌を魅了し、ほかの米は食べられなくなってしまった。
今でもここの米は食べ続け、子も孫も喜んで食べている。