ホーボージュン アジア放浪4カ国目 モンゴル前編「我、草原の風とならん」

2016.08.19 Fri

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ホーボージュン 全天候型アウトドアライター

All photo by Yuriko Nakao

私たちが暮らす「アジア」を眺めてみると、
まだ知られていないトレイルが方々に……!
世界中を歩きめぐってきたサスライの旅人ホーボージュンが
そんなアジアへバックパッキングの旅へ出た。
連載最後の国は大草原と遊牧民の国・モンゴルへ!

 

ホンゴル色とフレン色

「ジュン、これがアンタの馬だ」

 そういって遊牧民のチンゾリク青年から手綱を渡されたのは、明るい栗毛色をした牡馬だった。

「こいつは若くてパワーがあるから、前へ前へとよく走る。そのかわり性格にムラッ気があるからしっかりコントロールしろ」
 
 腹帯の締め具合を調整しながらチンゾリクは僕にそう言った。

「わかった。この馬の名前は?」
「ホンゴル」
「どういう意味なの?」
「馬の毛の色だよ」

 ホンゴルの隣にはよく似た栗毛色の馬が繋がれていた。

「そいつはフレンウレー。フレン色の馬って意味だ」

 僕にはホンゴルもフレンウレーもまったく同じ色に見える。でもチンゾリクに言わせると「なに言ってんだよ。ぜんぜん違うじゃないか」ということだ。

 モンゴルの遊牧民は馬の毛色について何十種類もの呼び名を持っていて、すべての色を正確に区別することができる。それほど彼らと馬との関係は近く、そして深いのだ。

「ホンゴル、よろしくな」

 栗毛色の鼻を拳でゴシゴシ擦ると、ホンゴルは気持ちよさそうに僕の胸に顔をすりつけてきた。ファーストコンタクトは上々だ。どうやら僕らはうまくやっていけそうだった。

「よし、じゃあ出発しようか」

 チンゾリクの合図で鞍に上がる。そのとたんグッと視線が広がり、一気に遠くまで見渡せた。鞍上から眺める草原はまるで海のようだ。さあ、いよいよキャラバンの始まりだ。

我、草原の風とならん

 見渡す限りの大草原。野性馬にまたがり広大な草原を駆け巡る。視界を遮るものはなにもなく、動くものは白き雲のみ……。小さい頃から憧れていたのがそんなノマド(遊牧民)たちの暮らしだった。

 だからこの「Asian Hobo Backpacking」の最後の国となる今回は、ちょっと足を伸ばしてモンゴル国を旅先に選んだ。草の海を漂い、星の頂に登る。それが今回の旅のテーマだ。

 子どもの頃の夢とはち切れんばかりの期待を胸に、7月のよく晴れた日、僕はモンゴル国の首都ウランバートルに降り立ったのである。

 ところがどっこいぎっちょんちょん(またもや)。

「なんだここは?ロシアかよ?」

 ウランバートルに入って一番驚いたこと。それは僕が抱いていたモンゴルのイメージと現実との大きな乖離だ。違和感を抱いた点はたくさんあったが、その最たるものがキリル文字だった。「Д」や「й」のようなロシア語で使われるアレである。看板や道路標識がぜんぶ「Монгол」とか「Улаанбаатар」なんて感じなのだ。

 蒙古や成吉思汗のイメージが強いせいか、僕はてっきりモンゴル語って「筆書きの縦書き」だと思っていたのだが(じっさい昔はそうだった)、1924~90年の社会主義国家時代にソ連の強い影響を受け、モンゴル語のキリル表記が進められた。そしてそれは民主主義国家となった今もすっかり定着してしまっているのだ。

 そんなロシアっぽい街中で、ひときわ目を引く看板があった。真っ赤な看板にまっ白い髭のメガネおじさん。そう。ケンタッキーフライドチキンである。

「最近モンゴルではKFCが大ブームなんですよ。どんどん店舗が増えていて、若者のデートスポットとしても人気です」と現地コーディネーターのマハさんが教えてくれた。

 何世紀ものあいだモンゴル人は「五畜」と呼ばれる牛、馬、羊、ラクダ、ヤギの肉を食べてきた。遊牧生活に向かない鶏や豚は本来はモンゴル高原にはいなかった。「しかし定住化と外食産業の影響で、最近は普通の家庭でもチキンを食べるようになりました。つい最近ウランバートルにモンゴル初の大型養鶏場ができたんですよ」とマハさん。
ウランバートルの人口は約135万人。全国民の半数近くが暮らす極端な一極集中都市だ。ガラス張りの青いビルはモンゴルで一番高級なマンションで最上階には元横綱・朝青龍が住んでいる(らしい)。右がコーディネーターのマハさん

 食生活だけではない。ファッションや文化も急激に西洋化、近代化しているそうだ。ご多分に漏れずここでも若者たちはスマホに夢中で、あちこちで歩きスマホをしていた。「ポケモンGO」はまだ上陸してないが、Facebookはすでに都市生活のデフォルトになっている。

「今日はKFCで友だちとランチでーす!」
「やっぱりスーテーツァイよりカフェラテだよねw」

 そんなリア充自慢、オレは見たくないぞ。

 ちなみに「スーテーツァイ」というのは煮出した黒茶にバターとミルクを入れたしょっぱい乳茶で、遊牧民の代表的な飲み物だ。空気が乾燥して強い陽射しの照りつける高原ではこのお茶で水分と塩分、そしてビタミンの補給をする。しかし都市部では日本同様「カフェブーム」が巻き起こっていて、スーテーツァイよりコーヒーを好む人が増えているらしい。

「なんだよー。モンゴル、おまえもかよー」

 自国のことは棚に上げて、がっかりする日本人なのであった。


Facebookの投稿ではない「絶景」

 今回僕はモンゴル奥地にあるアルタン・ウルギーという山をめざしていた。この山はモンゴル北部のテレルジというエリアにあり、直近の村から馬で往復4日の奥地にある。そこで今回はテレルジの遊牧民に馬を借り、アルタン・ウルギー山までの往復約160kmのキャラバンを組む計画を立てた。これに全面協力してくれたのがマハさんだった。

 マハさんはウランバートル在住の日本人で『天馬トレックキャンプ』という現地の乗馬ツアー会社の日本語サポートをしている。今回は旅の手配だけでなく、まったく英語の話せない遊牧民家族との通訳もお願いしていた。

 まずはマハさんの家で遊牧民の夫妻に会った。夫のビャンバは鷹のような目をした精悍な男だった。彼は奥テレルジ村の村長を務めていて、牧畜のかたわら自分の馬たちをホーストレックツアーや観光キャンプに貸し出している。年齢は45歳なのだが年齢以上に落ち着いて見える。村長を務めるのだからかなりの人格者なのだろう。
孫を腕に抱くビャンバ村長。ダンディでインテリで超オトコマエのなのだ。右はオトゴ夫人。旦那に負けないぐらいオトコマエ

 ビャンバとは対照的に奥さんのオトゴは威勢のいいおかあさんだった。

「あんた、わざわざ山に登りたいんだって? 変わってるねえ。まあ、どこでも案内してやるから任せときなさい!」

 そう言ってワハハハと笑った。今回はキャラバンに同行し食事を作ってくれる。もちろんすべて焚き火料理だ。荷馬には組み立て式の薪ストーブも積んでいくと張り切っていた。

 ウランバートルで買い出しを済ませると僕らはビャンバのランドクルーザーに乗り込みテレルジへと向かった。街を抜けると景色は一転し、見渡すばかりの草原になった。広大な空に白い雲が光り、ユラユラと揺れている。それはチンギス・ハーンの時代となにひとつ変わらない、ワイルドで原始的な大草原だった。

 ああ、これこそが僕の夢見ていた世界だ。

「あっ、ゲルだ!」

 草原の奥にぽつりと白いゲルが見えた。
「ノマドって本当にゲルに住んでるんだなあ……」

 当たり前のことが胸に刺さる。写真で見るのとじっさいに見るのでは大違いだ。生の瞳に映るこの景色はFacebookに書き込まれた誰の投稿でもない。生身の人間が暮らす生の地球の姿だった。

大草原のプリウス

 この日は国道のあちこちで交通規制があり、大草原のど真ん中だというのに大渋滞がまき起こっていた。ASEM(アジア欧州会議)のために世界各国から首脳が来ているのだ。参院選に大勝したばかりの安倍晋三首相も来ているらしい。

「なんだよアベー。こんなとこに来てまで俺の邪魔すんなよー」

 ブツブツいいながら渋滞の列に加わる。そこで僕は面白いことに気がついた。走っているクルマのほとんどが日本車で、その大半をトヨタ・プリウスが占めているのだ。日本では2003~11年に作られていた第二世代のモデルで、日本で使命をまっとうした中古車がリビルドされて輸入されているらしい。

「モンゴルはガソリンが高いから、燃費のいいプリウスは大人気なんです」とマハさん。

 輸入時にバッテリーをすべて新しいものに交換するので車両価格は高いが、粗悪な中国車やデザインばかりの韓国車に比べて日本車は壊れないから、みんな無理をしてでも買うそうだ。

 プリウスのせいだけではないだろうが、モンゴルは中国やタイやベトナムなんかと比べると排ガス汚染が圧倒的に少ない。こうして渋滞していても排ガス臭さをぜんぜん感じないのだ。「安くてよく走る」という経済的理由で選ばれる日本車が結果的に環境保護に繋がっているのは、日本人として誇らしいことだった。

 アベー、ちゃんと見とけよー。日本が世界に貢献できるのは武器輸出じゃなくて「エコ」だからなー。

道祖神に旅の祈りを

 ウランバートルから約70km。テレルジのエリアに入る前に小高い丘があり、そこに大きなケルン(石で積んだ山)があった。ビャンバはその前でランクルを停めると「今回の旅の安全を祈ろう」と言って丘に向かった。

 ここはモンゴル語で「オボー」と呼ばれる場所で、精霊が降りてくるための目印とされる。日本でいう道祖神のようなもので、旅人は道中の安全を祈願して時計回りにこのオボーを3周する。そして1周するごとに1つ石を積んで祈りを捧げるのがしきたりだ。オボーには青い絹布が何枚も巻き付けてあった。この絹布は空と空の精霊である“テングリ”を象徴しているそうだ。

「もともと草原には神も仏もいなかった」とビャンバはいう。

 騎馬民族は文字を持たなかったから仏典や聖書も伝わらず、定住しないから寺院や教会もなかった。土着的な占いやシャーマンによるまじないはあったが、それも「次の春には仔牛が何頭生まれるか?」とか「どの方角に行けば牧草が豊かか?」というような素朴なもので、基本的にはみな無宗教だったのだ。

 その後チンギス・ハーンがモンゴル帝国を築いた13世紀に初めて「文字」がつくられ、その後チベット仏教が伝播して徐々に盛んになった。しかし1930年代にソ連軍が進駐してきて徹底した宗教弾圧を行い仏教は壊滅状態になった。テレルジ周辺にはチベット仏教のお坊さんが隠れ住んだという岩窟がいくつもある。

 青い空にそびえるオボーを眺めていると、通り過ぎる車がしきりとクラクションを鳴らしていた。

「あれ、なんだかわかるか?」ビャンバが言う。
「峠の頂上だから、ぶつからないように合図してるのかな?」
「いやいや……。ほら、みんな3回ずつ鳴らしてるだろう?」
「うん」そう言われて見るとその通りだった。
「ああやってクラクションを3回鳴らして、オボーを3周回ったことにしてるんだよ。バチあたりどもめ」そういって苦笑いをしている。現代モンゴル人の無信心ぶりもなかなかのものだ。

 こういった宗教的空白と遊牧民の無垢さを狙って(?)最近は各国から多くの宣教師がモンゴル入りしている。なかでもモルモン教と統一教会はすごい勢いらしい。僕もウランバートルの街中でネクタイを締めて名札を下げた白人をたくさん見た。草の海に黒船のごとく押し寄せているのはフライドチキンだけではないのだ。

5つの川を越えて

 その後僕らはテレルジ・エリアに入った。

 ビャンバが村長を務める奥テレルジ村には178世帯、774人の遊牧民が住んでいる。しかし「村」といっても集落があるわけではない。遊牧民は広大な土地に点在して暮らしている。それにノマドは年に5回も引越をする流浪の民だ。そんな「村」を統括するのはたいへんな苦労らしい。ビャンバの村長の任期は来春で切れるが「できれば再選されたくないんだよね」とぼやいていた。

「さあ、ここが私の牧場の入り口だ。揺れるからつかまって」

 フロントウインドウの向こうには大きな草原が見えていた。

「あれがビャンバの牧場なの?」運転席に尋ねると
「いや、ここから川を5本越えたところだよ」と笑って答え、おもむろにトランスファーノブを4輪駆動に切り替えた。

 眼前に横たわる川は幅が10メートル以上もあった。もちろん橋などどこにもない。しかしビャンバは躊躇することなくアクセルを踏み込むと、ズカズカと川のなかに入っていった。極太のマディタイヤが豪快に水を巻き上げ、その飛沫が後部座席の僕に盛大にかかった。

 うへえ。いきなりワイルドな展開だ。

 そんなタフな徒渉を繰り返し、ついた先には夢のような光景が広がっていた。四方を森に囲まれた野原にはもえるような緑の絨毯が敷かれ、大きな角をもった牛たちが黙々と草を食んでいる。近くの立木には馬が繋がれ、顔にたかるハエが気になるのか、お辞儀をするように何度も首を縦に振っていた。

 野原の真ん中には澄み切った川が歌うように流れ、河原にはエーデルワイスの白い花が咲き乱れている。その真ん中に真っ白いゲルが4棟建っていた。

 なんか絵葉書のなかに入っちゃったみたいだな。

 夢見心地で僕はそう思った。

ゲルは遊牧民の智恵の結晶

「今日はここに泊まってくれ」

 案内されたゲルは12畳ぐらいある大きなもので、六角形の一辺に入り口、ほかの4辺には4つのベッドが壁沿いに配置され、一番奥には文机が置いてあった。天頂部には明かり取りと薪ストーブの煙突のための穴があり、壁面はすべて羊毛を固めたフェルトで覆われている。この日は暑かったのでゲルの裾がまくり上げられ、室内を風が抜けるようになっていた。

 表は刺すような陽射しだったが分厚い羊毛に断熱されたゲルの中は、まるで岩窟にいるように涼しかった。冬は暖かく、夏は涼しい。円形の外壁はどの角度からの風も上手にいなし、円錐の屋根は冬の降雪に耐える。そして移動が必要な時にはすべてを馬で運搬でき、半日もあれば設営が完成する。ゲルは何世紀ものあいだモンゴル高地で暮らしてきた遊牧民の智恵の結晶だ。

 4棟あるゲルのうちのひとつがビャンバ家の居住棟になっていて、最初の夜はここでみんなで食事をとった。

「さあ、まずは我が家のスーテーツァイを飲んでね」
ゲルの中央には薪ストーブが備わりここで煮炊きをする。太陽光発電で冷蔵庫も稼働させていた。右上がスーテーツァイ。下はオトゴ特製のマトンスープだ

 オトゴかあさんに促されイスに腰掛けると大きなどんぶりでスーテーツァイが振る舞われた。ミルクはその日の朝に絞られたばかりで、バターも作りたてだった。ベージュ色をした液体に恐る恐る口をつける。

「うまい!」

 僕はもっと生臭くて油っぽいものを想像していたが、初めて飲むノマドティは乾ききった喉にとてもおいしかった。飲み干すとすぐにおかわりが注がれる。馬が飼馬桶の水を飲むようにゴクゴクと飲んだ。

 そしてオトゴの手料理をいただく。この日は羊肉とタマネギを炒めたものに小麦を練って作ったパスタを和えたもの。香辛料は使わずに味付けは岩塩だけだった。

「うまい、うまい!」

 新鮮な羊肉に臭みはなく、タマネギは香りが強くてニンニクみたいだった。遊牧民の料理は塩分が強いと聞いていたがオトゴの手料理は塩分控えめで日本人向き。とても美味しくて僕はこれもおかわりをした。

「私の息子のチンゾリクを紹介するよ」

 夕食の時、ビャンバはそう言って長男を紹介してくれた。このゲルで生まれ育った生粋のノマド。チンゾリクとは「心の底から湧き出る(真の)勇気」という意味。その名前に負けない向こう見ずな性格で、若い頃はずいぶんヤンチャだったらしい。今回は猟銃を携えて“狩猟担当ガイド”としてキャラバンに同行する。ビャンバはかつてアルタン・ウルギー山で巨大なムースを仕留めたこともある狩りの名人だ。その父親を越えるのが今回の彼の目標だ。
きかん坊のチンゾリク。民族衣装のデールを着るときも「これがオレのスタイルだ」とキャップとパーカで着崩す。右は牧童のオンドラホ。いつも笑顔の癒やし系男子

 馬の世話を担当してくれるのは親戚筋にあたるオンドラホだ。おっとりした気の優しい青年でいつもニコニコ笑っている。彼は過去にいちどアルタン・ウルギー山に登ったことがあり、今回サブガイドに抜擢された。

 キャラバン隊のリーダー兼コックはオトゴかあさん。

「明日はいきなり50kmの長丁場だからね。みんな今夜はしっかり眠ってよ!」

 どうやら僕らの手綱は彼女に握られているようだ。

 ゲルを出ると西の空はまだ明るかった。夏のモンゴルは日が長く夜10時を過ぎないと暗くならない。

 僕は早く明日にならないかなあと、その夜は空ばかり眺めていた。


モンゴル流馬術

 翌朝、朝食をすませると出発準備に取りかかった。チンゾリクとオトゴが大きな振り分けのサドルバッグにキャンプ道具や食糧を詰め込み、左右のバランスを取りながら馬に縛りつけている。中には背中にストーブの煙突を縛り付けられた馬もいて、なんだかとてもユーモラスだった。

 出発前に「ノマド流乗馬」の指南を受けた。

 僕はこれまで世界のあちこちで馬に乗っていたが、モンゴル馬はこれが初めてだ。モンゴル馬はサラブレッドやスリークオーター種に比べるとかなり小柄で脚も短い。だから騎乗しても恐怖感が少ないし、身幅が狭いので股関節を大きく開かずにすみとても乗りやすい。

 馬を前に出すときは「チョオ!」というかけ声をかけて軽く腹を蹴る、止める時は「ドゥルルルル……」と巻き舌で長く合図を送りながら手綱を絞る。

「止めるときは手綱をヘソの前に引きながら身体を反らすんだ。そうすると鞍の重心が後ろに移って、止まれの合図だということが馬に伝わるんだよ」とオンドラホが教えてくれた。

 馬の向きを変えるときもウェスタン(アメリカ式乗馬)のようにアブミを前後にずらしたりせず、鞍を内側に傾けるようにして合図を送る。尻で馬の背骨を意識し、尻の筋肉の動きひとつで自在に馬を操る。それがノマド流馬術のようだった。

 しかし乗馬というのは水泳や自転車と同じ。ようは「習うより慣れろ」だ。

「チョオ!」

 ノマド流のかけ声をかけホンゴルの脇腹を蹴ると、栗毛色をした若い牡馬は草の海に向かって勢いよく走り始めた。

ノマド少年のオーラ

 キャラバンはゆっくりと草の海を進んでいった。気温は30℃、無風。真夏の太陽にジリジリ肌を焼かれながら馬を進める。途中何度か小さな川を徒渉した。馬たちは徒渉には慣れているのか多少の深みに入ってもまったく動じない。ホンゴルは水を飲みたがったが手綱を引いて押しとどめる。水を与えすぎると過度に発汗し筋肉が痙攣を起こすのだ。だから給水のタイミングはオンドラホの指示に従った。

 草原を縫うように進んでいくと、途中で150頭ほどの羊の群れに出会った。かたわらに馬に乗った7~8歳ぐらいの少年がいてその群れを誘導している。きっと家の手伝いをしているのだろう。

 少年の馬には木製の鞍が据えてあったが、アブミはダランと垂れ下がったままだった。少年が小さすぎて足が届かないのだ。しかし少年は気にするそぶりもなく手綱一本で馬を操っている。

 何げなく見ていると群れの中に反抗的な羊が1頭いて、そいつははとつぜん群れを離れるとドシンと地面に座り込んでしまった。それは大きな角をもった立派な牡羊で、少年の何倍もの大きさがあった。少年はモンゴル語で何か叫んでいたが、そのかけ声にもまったく反応しない。「オレはもうテコでも動かんけんね」という態度が遠目にもありありとわかった。
 
(あの羊、いったいどうするんだろう?)
 好奇心から僕はしばらくそこで様子を見ていた。

 すると少年は無言のままツカツカと牡羊に近寄ると、いきなり持っていた杖で牡羊をぶん殴ったのだ。

 それは何のためらいも、容赦も、手加減も、そしてスイングバックすらもない強烈な一撃だった。空を切った杖は「ドスッ」という鈍い音を立てて牡羊の太腿にめり込み、牡羊は吹き飛ばされるように立ち上がると、一目散に群れに駆け戻っていった。

(うわあ……)
 その迷いのなさに僕は言葉を失う。

 少年はニコリともせず、首を回して顔を群れのほうに向けた。するとなんということだろう。少年の馬はまるで少年の下半身にでもなってしまったように、視線の方向にクルリと向きをかえ、そのまま群れの後ろについたのである……。

 少年はもう手綱さえ握っていなかった。小さな身体で馬の背に乗っているだけだ。そしてなんの指示も、なんの合図も出していないのに彼の馬は群れの後ろをジグザグに歩き、羊たちをまとめあげ丘の向こうに消えていった。

 あっけに取られて僕はその光景を眺めていた。こんなちいさな子どもが馬と群れを完全に支配下に置いていた。写真には写らないオーラのようなものが僕には見えた。

 それは騎馬民族がもつ“気”とでも言ったらいいのだろうか?
 何千年ものあいだノマド暮らしをしているとああいう力が人に宿るのだろうか?
 それは生まれて初めて見る、とても力強い光景だった。
旅の途中でオトゴの親戚のゲルに立ち寄り昼食を作らせてもらった。子供達は燃料の牛糞集め。牧羊犬に羊のように長毛のボーダーコリー(?)がいて超癒された

牛糞煙幕大作戦

 この日は川の畔にキャンプを張った。長靴を脱ぎ捨て清冽な流れに飛び込む。「ひゃあああ~!」足が切れるほど水が冷たい。

 チンゾリクとオンドラホは草むらで牛糞をせっせと集めていた。強い日差しを浴びた牛糞はカラカラに乾いていて、薄焼きせんべいみたいになっている。あんなものどうするのかと思っていたら、キャンプサイトの四隅にそれを積み上げ携帯のガスバーナーで火を着けたのだ。すると真っ白い煙がモウモウと立ち込めて、キャンプサイトの回りにはぐるりと煙幕が張られた。

「ハエよけだよ」

 ナイフでジャガイモを剥きながらオトゴかあさんが言った。

「へえ~」
 なるほど、牛糞の煙幕を張ったとたん、あれほどうるさかったハエどもがたちまち何処かへいなくなってしまった。

 盛夏のモンゴル高原は「ハエの海」だ。夏の太陽を浴びて一斉に芽吹くのは草花だけではない。ハエやブユやアブどももまた短い夏にオノレの命をすべて燃やすべく草原からわんわんと湧き上がってくる。

 とにかくまあその密度たるやハンパじゃない。モンゴルの人口密度は2人/k㎡だが、ハエ密度はたぶん200兆匹/k㎡を越えてるんじゃないだろうか。

 ブンブン羽音がうるさいのもアタマに来るが、水分を求めて目元や口元にたかってくるのでうっとおしいことこの上ない。でもまあ僕ら人間はまだいい。手で振り払えるし馬のそばを離れればハエ密度もグッと下がる。

 可哀想なのは馬たちだ。どんなに頭やシッポを降ってみても追い払えるのはほんの一瞬で、日中はずっとつきまとわれる。ハエならまだしもアブだと最悪。好き勝手に噛みつかれ血を吸われる。かわいそうな馬たちの首筋や胸元にはアブに咬まれたミミズ腫れが何本も走っていた。

 牛糞煙幕はとても快適だった。クソだと思うと抵抗があるだろうが、ようはただの加工済みの干し草だ。イヤな臭いもせず、どちらかというと香ばしいいい匂いで、ときどき花の香りさえした。今度は日本でもやってみよう。でもみんなドン引きするかもな。

満月の夜に“ノマド飲み”綿入りのデールを着込んで満月の宴。オトゴは長旅に備えて羊肉を塩漬けして保存食を作った。今日の夕食は羊雑炊だ

「じゃあ、明日の登山の成功を祈願しましょうか」

 夕食を食べ終わるとうれしそうな顔をしてマハさんが荷物から酒瓶を取りだしてきた。『CHINGGIS KHAAN』というモンゴル製のウォッカだった。

 モンゴルといえば「馬乳酒」が有名だが、馬乳酒はアルコール度数が1~2%程度しかなく、酒というよりどちらかというと乳酸飲料に近い。だからモンゴルで「酒」というとウォッカを差すことが多い。このあたりにもロシアの影響は大きい。

 この日はちょうど満月だった。僕らは月明かりに照らされた草原に車座に座り、「セレジム」という現地のしきたりに則って宴会を始めた。

 この日はマハさんが親(ホスト役)を務めた。

 まずは親が杯に酒を注ぎ、そこに右手の薬指をちょっと浸ける。そして薬指を親指で弾いて酒のしずくを天に向かって飛ばすのだ。同じように次にこれを大地に向けて飛ばし、最後にそれを自分の額につける。そして「天と地と○○に」と感謝の言葉を述べ一気に飲みほす。○○に入る言葉は「両親」でも「故郷」でも「友情」でもなんでもいい。この日は「山の神様」に感謝を捧げた。

 このあと親は杯に酒を注ぎ直し、それを左隣の人に差し出す。受け取った人は親と同じようにセレジムを行い、一気に飲み干し、親に戻す。親は再び杯に酒を注ぎ、2人目の人に渡し……というように順番に回し飲みをする。これをまずは3周繰り返すのだ。

 またたく間に酔っ払ってしまった。そりゃあそうだ。ストレートのウォッカを3杯もイッキすれば、誰でも酔っ払う。しかも標高はもう1,800mを超えていた。僕はフラフラと川まで歩くと冷たい水で顔を洗った。

 それにしても涼しくて気持ちよい夜だった。あれほどうるさかったハエの羽音もピタリと止んだ。ハエは太陽が沈んで気温が下がるとたちまち身体が動かなくなるのだ。バカなやつらだ。代わりに遠くで鈴虫が鳴いている。美しく快適な草原で僕らは機嫌よく酔っ払った。

「まだやってんのかよ~」

 テントの中でチンゾリクがぼやいていた。チンゾリクは酒が飲めない。いや、飲めないのではなく、今日は飲めない。遊牧民の古くからのしきたりで子どもは親の前では酒を飲んではいけないのだ。

 ちょっと気の毒になったので僕はオトゴに「いいじゃん、ちょっとぐらい」と言ったら「私の前で酒なんて飲もうもんなら、すぐにブッ飛ばしてやるから!」と鼻の穴を膨らませていた。このあたりは厳格な遊牧民の家庭だった。その本人はすでにもう酔っ払ってゴキゲンだったけど……。

 オンドラホもまたゴキゲンだった。ずっと静かに飲んでいたが、やがて身体をユラユラ揺らすと古いモンゴル民謡を歌い始めた。

 母乳の匂いが染みこんだ
 ボサボサの髪の赤ちゃんの頃
 美しい歌のメロディで 私をあやしたお母さん
 私のお母さん 素晴らしいお母さん

 月夜の草原に切ないメロディが流れる。オンドラホの歌を聴いていたオトゴがそこに美しいハーモニーを重ねる。

 どんな息子を産んだのか
 お母さん、見守っていて下さい
 そしてどんな人に守られているのか
 我が故郷よ 見ていて下さい
 私のお母さん 素晴らしいお母さん

 チンゾリクにとっても、オンドラホにとっても、そしてオトゴにとっても母親はいつも忘れることのないかけがえのない存在だ。そして彼らノマドにとってなによりも大切に想い、ずっと寄り添う母親は、この果てしない大草原なのだ。

 満月に照らされた草原に、青い風が渡っている。
 明日はいよいよアルタン・ウルギーだ。
 母なる大地よ、どうか見守っていて下さい。

 ふたりの歌声を聞きながら、僕は草むらで眠ってしまった。

後編に続く>
 


 

 では、具体的な今回旅したモンゴルの地図、相棒バルトロについてなど旅の役立ち情報を公開!


モンゴルBackpacking map

 ウランバートルで立ち寄ったアウトドアショップ、飲食店、スーパーなどの旅の情報を落とし込んだオリジナルの地図を作成した。スマホやタブレットにGoogleマップが入っていれば、自分がいまいる現地情報と合わせて地図を使うことも可能だ。右上の□マークからは拡大地図へ移ることもできる(これはPCの方が見やすいかも)
ウランバートルの街
 モンゴルはユーラシア大陸の内陸部にあり、南側を中国、北側をロシアに囲まれた内陸国だ。平均標高は1,500m。高原の大草原とゴビ砂漠を有する国であり、13世紀にはチンギス・ハーンにより世界最大の国家モンゴル帝国を形成したことでも知られる。
 モンゴルの中央より少し北西に位置する首都ウランバートルは文化、政治、経済などの中心地。街並みは旧社会主義国家独特の計画都市の様相を漂わせ、目抜き通りに沿って計画的に作られたような整然とした景観で、どこかロシアのような雰囲気もある。海外からのツーリストもまずはウランバートルに降り立ち、この街を起点にモンゴル各地に陸路や空路で足を伸ばす。
 ちなみに日本からのアクセスだが、成田空港ーウランバートル間は直行便で4時間45分。モンゴルは以外と近いのだ。

アウトドアショップ「THE SEVEN SUMMITS

 ウランバートルで最も充実したアウトドアショップ「ザ・セブン・サミッツ」。テントやシュラフ、ストーブ燃料などはもちろん、ハンディGPSやクライミング用品などかなりマニアックなアイテムまで取り扱っている。特長はギアの販売だけでなくマウンテンバイクやカヌーなどのツアーを開催していること。乗馬やトレッキング以外のアクティビティを体験したいならぜひ訪ねてみて欲しい。
基本的なキャンピング用品はすべて揃う。最近の人気アイテムはガーミンのハンディGPSだそうだ。キャップコーナーにはマネキンの首がたくさん並んでいてなんともシュール。店員さんはみんなうら若き女性でついつい長居してしまった。そしてなんと青い服のJ.GULMAIRAさんは日本語が話せる!モンゴルの若者のあいだでは日本語学習がさかんなのだ

レストラン「モダンノマド」
 レストラン「モダンノマド」はウランバートルに5店舗を構える人気店。モンゴルの伝統的な料理がメニューに並び、地ビールやモンゴルのワインなども充実していた。遊牧民の料理は塩分が強く日本人には塩辛いが、この店の味付けは洗練されていて僕らの口にも合う。包子(パオズ)や小籠包など中華系のメニューも多く飽きさせない。
右の写真はモンゴルの伝統的なノマド料理ヌーデルチンニー・ゾーク。“遊牧民のごちそう”という意味で、日本でいうジンギスカンの元祖である。黒く見えるのがラム肉で、白い部分は脂身だ。この下に大量の野菜が隠れている。左は羊肉の包子

スフバートル広場
 街の中心地がこのスフバートル広場。広場の中央には革命家スフバートルの像が、正面の政府宮殿(日本の国会議事堂にあたる)にはチンギス・ハーン像が鎮座している。ちょうどこの時期はASEM(欧州アジア会議)が開かれ、モンゴルは初めてのホスト国となっていた。広場には53カ国の国旗が翻り、多くの報道陣が取材を続けていた。この広場から半径1~2kmのなかにこの国の行政機能のほとんどが集まっている。
モンゴルの国会議事堂前には巨大なチンギス・ハーン像がある。社会主義時代は「独裁者」として批判されていたが、1990年の民主化以来再評価が進み、いまでは再び民族の英雄となった

旅の相棒 Gregory バルトロ65
 香港から始まり、ベトナム、台湾、そしてモンゴルとともに歩いた相棒の「バルトロ65」。今回は動画で細部まで解説しよう。



サイズ: S、M、L
容量: 61L(Sサイズ)、65L(Mサイズ)、69L(Lサイズ)
重量: 2,200g(Sサイズ)、2,300g(Mサイズ)、2,369g(Lサイズ)
カラー: ネイビーブルー、スパークレッド、シャドーブラック
価格:42,120円(税込み)

 

(文=ホーボージュン、写真=中尾由里子)


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