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【タヒチ紀行1】ポリネシアン カヌー・ルネッサンス
2019.11.11 Mon
藍野裕之 ライター、編集者
タヒチへは、成田空港から直行便で、およそ11時間半。篠遠喜彦博士を頼ってタヒチ通いをしていた1990年代の中頃、日本からの直行便といえば、エール・フランスだったが、98年からはエア・タヒチ・ヌイになった。1社だけというのは変わらないが、タヒチ資本の航空会社が生まれ、フランス資本に取って代わったのである。
90年代は、転換期だったのかもしれない。エア・タヒチ・ヌイの機内誌『REVA TAHITI(レヴァ・タヒチ)』を読んでいて、そう思った。かつて機内誌の誌面は、ステレオタイプな楽園イメージを掻き立てていた。いまはポリネシア文化を伝える記事が多くなった。それも骨太の民族誌的な記事だ。わたしは長いフライトの間、20年ほどのタヒチに対する空白を埋めようと、丹念に機内誌のページを繰った。
なかでも、ダニー・ハザマ(DANEE HAZAMA)の記事が目を引いた。彼は、90年代からタヒチを拠点にして活動している日系アメリカ人だ。本職は写真だが文章も書き、タヒチのみならず、南太平洋各地の文化を丁寧に伝えている。搭乗便の機内誌では、カヌー文化の記事にすばらしい写真を提供していた。
彼のように探検的な活動をする者たちが集まり、「タヒチ・ヌイ・エクスプローラーズ」という組織をつくっている。これをエア・タヒチ・ヌイは支援しているようだ。そして、ダニーら現代の探検家をアンバサダーに迎えている。
『レヴァ・タヒチ』は、仏英日の3言語で編集されているもののほか、英語併記の中国語版がある。こちらのほうにダニーは、台湾南部の離島、蘭嶼で、タオ族の伝統的な祭りを追った迫真のリポートを提供していた。台湾での3年におよんだフィールド・スタディの成果である。
ポリネシア人の祖先をたどると、ユーラシア大陸東南部、その先に点在する島嶼部に行き着く。言語学では台湾先住民とも縁が深いこともわかっている。アフリカで生まれた人類は、移動を重ねてアジアの端で太平洋と出会った。そして長い時間をかけ、ある者は命を落とし、ある者は生き残り、海と生き、ときに海を越えていく知恵と技術を会得していったのである。
やがて、彼らの子孫の中から、航海に非常に長けたラピタ文化を持つ集団が育った。いまから3000年ほど前のことだ。ニューギニア島周辺の海域が彼らのホームランドで、そこから東へ東へと移動を重ね、まだ誰も住んでいなかったポリネシアに辿り着いたのである。
朝10時を回ったころ、飛行機は定刻通りにタヒチ島のファアア国際空港に着いた。わたしたちは、ここから北西のリーワード(風下)群島へ向かう予定だった。エア・タヒチが、パペーテの空港からフレンチ・ポリネシア内の島々へ国内線を縦横に運行している。リーワード群島へは、フアヒネ島、ライアテア島、ボラボラ島と、アイランド・ホッピングする巡回便が日に数便出ている。しかし予約した便は夕方4時のフライトだった。
出発まで時間があったので、タクシーでパペーテの町に出て、腹ごしらえをと、まずはマルシェへ向かった。町の中心にある公設市場だ。市場は、タヒチの庶民の食文化や物価を知るのにいい。沿岸で獲れた魚とともに、色とりどりの野菜や果物が並ぶ。祖先の主食だったタロもあった。この南洋のサトイモは、稲に水稲と陸稲があるように、田でも畑でもつくられる。田芋の方が味は濃厚で、ポリネシアだけでなく、蘭嶼や沖縄にもつくられているが、タヒチでは畑芋が多い。
パペーテの人口は、わずか25,000人ほどで、同じポリネシアの都市でも100万人に達しようというホノルルに比べれば、ほんの小さな町でしかない。
ハワイとタヒチは、自然環境が似ているだけでなく、似た近代史を持つ。いずれも18世紀末に西洋人探検家に「発見」された。そして、先駆者の後を追って来島した西洋人から、それまで知り得なかった銃と大砲という武器を提供され、先住民の首長が全島を平定して王国をつくった。
しかし、ハワイのカメハメハ王朝もタヒチのポマレ王朝も、それぞれ19世紀末に西洋人の大国に併合されてしまった。その後は、太平洋の覇権争いのための軍事拠点となる。
マルシェをひとしきり巡り、チャイニーズ・デリでランチ・パックを調達し、マルシェの脇のテラスで食べた。出発前にダニーに連絡をすると、マレーシアのジャングルにいた。パペーテで会えると思ったが、わたしたちがタヒチにいる間はカリフォルニアだという。
ダニーもフォローするタヒチ・ヴォヤージング・ソサエティが、パペーテの港にオフィスを構える。この組織の主力カヌー「ファアファイテ」が見たかった。タヒチアンの祖先が操った遠洋航海型双胴カヌーを復元したものだ。しかし、こちらも留守だった。ファアファイテはニュージーランドへと旅立ってしまった。わたしたちが到着する3日前のことだった。
タヒチから3000kmを超える航海だ。この長い距離を、六分儀や海図といった西洋由来の航海機器をいっさい使わない伝統的な航海術で旅をする。伝統航海術とは、スターナビゲーションとも呼ばれる。夜空に輝く星々を頼りに方角を知る技術が基本だ。天体を熟知していることはもちろん、海の色や風、うねりの変化、雲の形、海鳥などが、近くの島からのサインとみなす。ファアファイテのニュージーランドへの旅はTuia250 という大きな祭典に参加するのが目的だった。
20世紀になると、ポリネシアの伝統航海術は、完全に途絶えた。太平洋ではミクロネシアに色濃く残り、それを手本にして、1970年代からポリネシアンの学び直しが始まった。先住民というアイデンティに覚醒したポリネシアンは、偉大な航海民である祖先に近づくために、同じような航海を始めたのである。
1987年、ハワイからアオテアロア(ニュージーランド)までを往復し、ハワイに帰還したホクレアを迎える人々。©️Honolulu Star-Advertiser
まずハワイが先陣を切り、ホクレアという遠洋航海型双胴カヌーを復元し、ハワイアンは祖先の地として伝説にいわれるタヒチへの航海を成功させた。この冒険航海が火付け役となり、ニュージーランドやクック諸島が、これに呼応した。そして90年代、このポリネシアンたちの遠洋航海型双胴カヌーと伝統航海術の復元は、「カヌー・ルネッサンス」と呼ばれるムーブメントにまで発展していた。もちろん、そこにタヒチも加わっていた。しかし、なかなか組織化には至らず、タヒチ・ヴォヤージング・ソサエティが設立されたのは2009年だった。
これまでにも、ポリネシアンたちが現在の国家を越え、遠洋航海型双胴カヌーを駆って集まる祭典は行なわれてきた。だが、今回のTuia250は以前とは根本的に異なる。ジェームズ・クックが船長を務めた18世紀末のイギリスの探検船も復元され、ポリネシアンの復元カヌーと一緒に航海するのだ。クックが西洋人として初めてニュージーランドを訪ねたのは、1769年のことだ。ちょうど今年は250周年というのでTuia250が企画されたのである。
かつて探検は植民地主義の先鋒だった。たとえ人間が住んでいる地であっても、地図に記載のない地なら「発見」とされたのである。それは「未開」の発見でもあった。だが、Tuia250 はクックが率いた探検隊の到来をポリネシアと西洋との「出会い」だという。90年代にはあり得なかったテーマの表出に思えた。
90年代は、先住民の連帯の時代であった。西洋人により、不当に共同体を侵略された歴史を背景に、植民地主義への対抗するアイデンティティとして、先住民が覚醒し、屈辱の歴史を共有する人々が連帯していったのだ。ポリネシアのカヌー・ルネッサンスは、カヌーが連帯のシンボルとなり、自分たちの祖先は「未開」の汚名を着せられたが、偉大な航海者なのだ、と世界に知らしめる意味が少なからずあった。
だが、アイデンティティとは自己の発見であると同時に、他者との差異の発見でもある。文化の差異を意識したとき、おうおうにして他者理解へとは発展はしない。不信や嫌悪が先に立ち、異文化の否定や民族間抗争の火種となる場合のほうが圧倒的に多い。それがどうだ。Tuia250は異文化の出会いがテーマなのだ。アイデンティの確立は人を幸福にはしない。民族紛争という20世紀末の出来事が指し示した人間の共同体づくりの限界を、ポリネシアンは超えたのだろうか。
ポリネシアの中で、南西の端に位置するニュージーランドは、もっとも多文化共存が進んでいる。マオリの文化と権利が尊重され、イギリスからの植民者たちの文化と共存するよう、早くから政策も打たれてきた。ラグビーW杯で知る人も多くなったハカ。これがオールブラックスの象徴となったのは、長い努力の賜物である。マオリの「敵への威嚇」としての踊りが、ラグビーの文脈の中で「相手への敬意」と変わった。多文化共存には、過去を置換する新しいルールが必要だったのである。
大国の論理に翻弄されながら、伝統文化に新しい文脈を与えて読み替え、新しい世界観を紡ぎ出す。信じられないような青い海に囲まれつつ、その瞬間と出会う。じつは、これがポリネシアの旅の最大の魅力だと思っている。
そうしていま、また新しい物語が紡ぎ出されようとしている。ランチを終えて空港に戻り、エア・タヒチの小型機に乗った。めざしたのは、初期の探検家が「カヌー・ビルダーの島」と呼んだフアヒネ島だ。
(文=#藍野裕之 写真=#飯田裕子)
【タヒチ紀行2】へと続く(ポリネシアの歴史と文化のつながりを未来へ伝えるフアヒネ島のボビーとドロシー)