- 山と雪
『電波少年』からエベレストへ。“なすび”が世界の頂をめざした本当の理由—その②
2016.10.24 Mon
久保田亜矢 フォトジャーナリスト、編集者
(なすび、前編はこちらから)
▼エベレスト登頂に4度の挑戦。資金調達なども大変だったのでは?
そうですね。最初の資金集めは顔を知る方々にお願いをして集めたのですが、2回目はクラウドファンディングを使って資金を集めました。設定金額は600万円。クラウドファンディングの担当者には「その金額は絶対に無理です。過去に集まったことがないし、売名行為と取られてしまうかもしれません。100万あるいは200万くらいにしておいた方がいいのでは」と忠告されました。
しかし現実問題、その金額では入山許可の費用にしかならず、もし集められたとしても、その後に掛かる費用もなかったので、あえて登るためのギリギリの必要金額を設定させていただきました。
期限の1日前までで400万ほど集められたのですが、クラウドファンディングのルール上、設定費用にまで到達しなければコンプリートされず、「0」になります。さすがに24時間以内にあと200万を集めるのは無理だろうと正直、諦めかけていたんです。ところが周りのみなさんが呼び掛けてくださって、奇跡的に資金の調達ができたんです。
とくにTVなどを使って呼び掛けたわけではなく、ネットでぼくの思いを理解してくれている不特定多数の方々、しかも、お会いしたことのないみなさんにご協力いただいたこともあって、ものすごくプレッシャーを感じていました。
なにがなんでも登ろう、という強い思いでの再挑戦でした。
ところが2014年は氷河の事故で断念。ぼくらがベースキャンプに着いたところで、ネパール政府から登山中止の連絡があったんです。
理由はアイスフォールで氷河が崩落してルートがなくなり、16名の犠牲者が出ていたこと。また犠牲者の遺族と行政、そして続行中の登山隊との話し合いが進まなかったためでした。
1年目は、(登頂はできませんでしたが)それでも全力を尽くした感はあったんです。ところが2年目はベースキャンプで終わり、スタートラインに立ったところで終わってしまったんです。多くの方々から応援してもらっていて、1年目よりも応援の輪の広がっていたので、どんな顔をして帰ったらいいか分からなくて……。
また批判される、という怖さも心のどこかにありましたし、「消えてなくなりたい」と正直思いました。
▼でも、日本には帰って来た。帰国するキッカケがあったのですか?
2回目の挑戦があっけなく終わり、「帰りたくない」と毎日テントで泣いていたところを、あるシェルパが見ていたんです。そして、「そんなに帰りたくないなら、ぼくのふるさとに来ないか」と声を掛けてくれたんです。
彼のふるさと、シェルパ族の村へ連れて行ってもらい、しばらく地元の人と交流する日々を過ごしました。ある日、山の側面一帯にタルチョという旗が広がるハレシという場所に連れて行ってもらったときに、なぜか心がとても穏やかになったんです。
そこは日本の観光客が訪れるような場所ではなく、地元の人たちが訪れるチベット仏教の聖地のようなところでした。その光景を見たときに「神様に呼ばれてここに来たのかな」と。
また、「ぼくはここに連れてきてもらうために、今回の登山が中止になったのかも」と思えるほどに、不思議とその場に居ることで気持ちの整理がついたんです。
さらに、ネパール政府からパーミット(入山許可)を繰り越し、5年間有効にするという連絡があったことも気持ちの救いになりました。
▼2015年にふたたびネパールに向かいますが、このときは大地震に見舞われてしまいましたね。当時の様子を教えてください。
2回目もいろんなプレッシャーがありましたが、3度目の正直という言葉があるように、「今度こそ」という思いが当然ありました。「今までの2回は助走だった。3度目の正直だよ」と現場の仲間たちにも期待感があったんです。
雪崩などの事故は可能性として否定できない。なので、3回目は目標を「登頂」に掲げてはいましたが、心のなかでは「生きて帰ること」を最大の目的としていました。
ところが、まさかの大地震。夢にも思っていなかったので……。ベースキャンプに着いて2日目でした。最初は、氷河が崩壊しているのかと思いました。ちょうど昼頃でした。テントの中で今日のランチはなにかな、と話しているときにグラグラと揺れはじめたのです。
近藤さんが「急いでテントから出ろ」と大声で叫んでいたのを覚えています。その後、揺れは弱まりつつあるのに、なぜだか地鳴りがぼくらのいる谷のなかで静かに響いていました。
その日は小雪が舞う天気。雲底が低かったので周りの状況がよくわからないし、地鳴りのような音が共鳴していて、その音がどこからなのか最初は分かりませんでした。
次第に音の方向がはっきりと分かった途端、雲の下から爆煙の先端が現れたんです。同時にあちこちで悲鳴が聞こえました。
ぼくらのキャンプ地の裏にちょっとした窪みがあって、そこに向かって走る近藤さんを追って、ぼくと(伊藤)伴くんが飛び込んだ瞬間に、雪煙と爆風でベースキャンプが吹き飛ばされてしまったんです。
その間たった8〜10秒ほどでした。ぼくらが窪みだと思っていた場所は、プジャ(安全祈願)をするための石組みされた祭壇で、大きさにして軽自動車を縦にして半分にしたような本当に小さなスペースでした。そこに5〜6人でうずくまって隠れたんです。
のちに、隊長の近藤さんがそのときに撮ったビデオを元に計算してみると、雪崩は時速にして約170kmはあっただろうと。とにかく一瞬の出来事でした。
その後、ぼくらは4、5日間をベースキャンプに残って救援活動をしました。隣の隊は20〜30m離れたところにベースキャンプを張っていたんですが、跡形もなく吹き飛ばされ、亡くなられた方もいて。
東日本大震災、そして今回の地震。これらの体験をしながら「自然に抗っちゃいけないんだな」と心から思うようになりました。
そして、3度目のこの状況を見ながら、「もう挑戦は終わったな」とも思いました。これ以上続けたいなんて口が裂けても言えない、と。
登山は中止になってしまったけれど、2011年の東日本大震災のときにネパールの人たちがたくさんの支援をしてくれたことを聞いていたので、「ここで恩返ししないで帰ったら俺って不届き者だな」と思い、引き続き1か月ほど現地に残って救援活動をすることにしました。
この3回の経験で、なぜだか心の垢が取れた気がしたのも事実です。
▼「挑戦は終わった」と諦覚するにいたり、4度目を思い立ったのはなぜですか?
ひとつはパーミットがまた延びたんです。2015年の3度目のときは、前年の崩落事故によって5年間有効になったパーミットを使って挑戦しました。しかし、「さすがにあの大地震のあとでは、災害が理由だけに、パーミットの延長をネパール政府は言い出さないだろう」という空気が登山隊のなかにもあり、諦めざるを得ないと思っていました。
ところがネパール政府は、昨年末、「2015年に使ったパーミットを2年間だけ延長する」と発表したのです。
もうひとつ別の理由もありました。昨年末から今年の春先にかけて、ぼくは青森の八戸から福島の相馬まで総距離約700kmにおよぶロングトレイル「みちのく潮風トレイル」を歩いていました。
そのとき、東北にみなさんにエベレスト挑戦の話が浸透していたことが分かったんです。ぼくの想像以上に。
福島だけでなく他県の人にも「頑張ってね」と声を掛けられると「止めました」とは言えなくなってしまって。
さらに言うと、去年、一昨年のエベレストの挑戦はベースキャンプで終わっているんですよ。ベースキャンプから上、願わくば2013年の標高8,700mよりも上にもう一度行ってみたい。あのときの自分よりも1mでもいいから先に行きたい、という思いが湧いてきたんです。
過去の自分を越えたいという思い、自然云々でもなく、エベレスト云々でもなく、自分の限界を突破したい、自分の限界を超えるべく挑戦をもう一度してみたい、と。
そして、今度は自然に抗うのではなく、自然に寄り添うこと、受け入れてもらうという気持ちを持ちながら挑戦したいと……エベレストに受け入れられたいという気持ちにいたったのは今年が初めてだったと思います。
▼頂上に立ったときは、どんな思いが湧き起こりましたか?
頂上に立ったときは眼下に雲が広がっていたので、残念ながら景色を見ることができなかったんです。でも、格別な思いはありました。
多くの人は自己の目標だったり、自己実現のためだったりするんでしょうけど、ぼくは達成感よりも、福島や東北のみなさんとの約束が守れたという「安堵感」のほうがむしろ大きかった。同時に、これからまた下山しなきゃならないという不安も大きかったですけどね。
▼エベレスト登頂まで幾度となく山へ通い、当初の山への気持ちは「嫌い」から「好き」に変化しましたか?
やっぱり「嫌いです」と答えてしまうんです(笑)。
ただ、山から教えられたこと、自然から学ぶこと、自然への敬意は随分変わりました。エベレストは体力やテクニック、精神力、資金、そして天候など、いろんな条件が揃わないと当然できないことなんですよね。ふつうの人はなかなか挑戦しないし、高所登山に興味を持たれている人でも一生に一度挑戦できればいいという状況なのに、そんな山にぼくは4回も挑戦することができました。
当時は1mmも思えなかったことでしたが、いまは分かるような気がします。4年掛かったということに意味があるんだろうな……と最近ようやく思いいたりまして。
▼エベレストに登るうえで、いちばん辛かったことは?
やはり、身体の辛さというより、売名行為だとか便乗と言われるのがいちばんキツかったですね。ただ、最初に相談した角谷さんに言われたことを思い出していました。「懸賞生活のときに、ハガキ一枚一枚書いて孤独に耐えていた辛い経験が根底にあって、その精神力があれば……」と。
登りながらも「懸賞生活のときのほうが大変だったな」と思えると、その先に足を踏み出すことができたんです。精神修行のための懸賞生活ではなかったけれど、そのときの経験は今回のエベレストの登頂に生かされていると思っています。皮肉なことですが。
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いまもエベレストに登る前も、彼は喜劇役者として活動を続けている。「エベレストの次は?」とときどき聞かれることがあるそうだが、なすびの返事はこうだ。
ぼくにとってエベレストへの登頂は目標ではありません。福島や東北のみなさんのために、ぼくができる何かをしていきたい、という思いのひとつであって、その通過点なんです。
それが山登りになるのか、他の何になるのかはわかりませんが、またぼくがやれることをやるだけです。