- 山と雪
【短期連載】高桑信一の「径 ― その光芒」女川古道 其の弐
2018.07.03 Tue
目的によって拓かれた径は、それを失うことで野に還ってゆく。消えゆく古道に漂うかつての暮らしや文化、よすがに触れてみたい。草に埋もれ、忘れ去られた径をたどる旅━━。源流遡行や日本古来の風物に触れる著作を多くもつ高桑信一さん。そんな高桑さんが、日本各地に遺された古道を訪ね歩きます。
初日にタープを張ったのは元光兎山の直下だった。元光兎山を越えて、湯蔵山手前の鞍部を目標にしたのだが、地形図からみて、水はとれてもタープの張れる平地があるかどうか疑わしくなったからである。
四人のメンバーを二つに分け、二人を沢に下らせて水の確保を託し、残る二人はテント場を求めて先行した。消えぎえの道形の上でよければ適地はあった。この山道を通る物好きなどいようはずもないのに、それでもあえて二重山稜の向こうの森を探したのは、径を泊り場にしてはなるまいという、古道への敬意と配慮のゆえであった。
幸いにして適地を見つけ、水を背負って追いついた仲間とともに薪を集めていたら、どこからともなくラジオ体操の音楽が聞こえてきた。秋分の日だったが、さすがに午後のこの時間にラジオ体操はあるまい。いかに標高が低いとはいえ、早朝からいくども径を踏み惑い、ようやくたどり着いた山中なのだから、幻聴だとしてふしぎはなかった。里は山波に隠れて見えず、方向はさだかではなかった。音源が北方の小和田の里だとしたら、女川を伝って吹き抜ける風の通り道があるとしか思えなかった。その風の通り道が空間を歪め、いまあるテント場を聖地のように思わせた。
湯蔵山の次の頂から延びる痩せ尾根を下り、猛烈な藪漕ぎの末に、清冽な横松沢に着く。あの藪尾根が古道だったとは畏れ入る。
夢のごとき空間であった。静かに立ち上る焚き火の煙の向こうに、二人の女性が横たわっていた。これまでの二度の古道の旅のいずれもが散々な悪天で、しかも編集者と二人である。写真を撮ろうにも、どちらも品位とはまるで無縁で、むさくるしい画像では古道探しの情熱など伝わるはずもない。ここは女性の起用しかあるまいと、私たちは記事の片隅に「古道ガール募集」なる広告を載せた。その広告を見つけてくれたのが彼女たちであった。
ひとりは山岳カメラマンの高橋郁子さんで、あとのひとりは登山用具メーカーに勤める小澤由紀子さんである。ともに業界人で日程の自由はある。大人の分別に支えられた遊び心に満ちた妙齢の晴れ女で、歩荷力にも登行技術にも、なんらの問題はなく、しかも登山道歩きとはかけ離れた古道探訪に興味津々の体であった。そんな彼女たちとの山旅は、それまでの暗雲を吹き飛ばすかのような涼風をもたらしてくれた。
古来、男たちにとって、女性は華やかで安らぎに満ちた対象であった。もしかしたら彼女たちの存在こそが、このテント場を聖地と思わせたのかもしれなかった。
震える私を温めようとする女性たち。男冥利に尽きるか。
目覚めると、山稜は霧に覆われていた。視界が乏しいため、径を見失うと行方を捜すのが難しい。
ほんのひと登りで元光兎山に立つ。女川対岸の光兎山に遷座するはるかな昔、神の依り代だったとされる元光兎山には、もしかしたらと期待した神の痕跡の欠片もなかった。それどころか、霧に幻惑された私たちは、あろうことか尾根を外れて湯蔵川の源頭に迷い込む。そこからの脱出に小一時間をかけて尾根に戻り、湯蔵山の鞍部で休むが、清冽な水が流れていたものの、案じたとおり泊まれる空間ではなかった。
藪に閉ざされてはいたが、紡錘型の山肌を登りきって、小さく切り開かれた湯蔵山の三角点に立った。展望は皆無であった。
古道が残るためには三つの要因がある。一つはもちろん人間が通って手を入れることで、次に径が通っていた場所が、湿地や乾燥地帯などの藪の生えない植生であることだ。残る一つが獣道の存在である。獣が歩いた径を人間が用いたか、あるいはその逆だとしてもいいが、そうしたさまざまな天与が、古道の痕跡を原生の山中に点々と浮かび上がらせていることは確かだ。
両岸の細い踏み跡を探すより、遡行のほうが効率がいい。
湯蔵山頂の頑強な藪を潜り抜けると、南に向かう伸びやかなブナの疎林で、その先の小さなピークから左に折れて、女川に下る尾根に乗る。これが女川古道だと、情報をくださった亀山東剛さんの資料に示されている。その点線に?が付いているのは、尾根の落ちる女川の合流点が「一の渡り」だと確認されているからで、だとすれば、そこに至る尾根はこれしかないのである。
道の痕跡などどこにもない藪尾根だが、迷いようもないほどの急峻で狭く、道があれば、さぞかし効率の良い登下降路になるだろうと思わせられる。
しかし、さきほど左折した山頂の三キロ先には、標高八二四メートルの横松山があり、そこからも間道が女川に向かって延びていたらしく、横松山には山麓の荒川からじかに登ってくる間道もあったのである。このあたりのどこかに「横松の番所」があったのは間違いないのだから、千年を超える歴史のあいだには、女川に下る尾根道が移動したか、あるいは二本の尾根が並行して使われた時代があったのかもしれない。
いずれにしても、せっかく女川中流のゴルジュ帯を避けて尾根に乗ったのに、ここで女川に下るのは無駄としか思えない。横松山を越えさえすれば、尾根通しで県境の蕨峠に向かえるからだ。その疑問は亀山さんも抱いたらしく、以前歩いてみたが、とても歩行に堪えない険しさだったという。つまり女川古道は、いにしえの街道の例に見るごとく、無駄なく効率の良い道筋をたどっていたのである。
ひどい藪尾根だったが、二時間足らずで女川の清流に足を浸した。一の渡りは、ほんの少し下流にあるはずだった。尾根の末端は傾斜がきつく、安全を期して上流側の、横松沢の下流に降りたのである。
女性二人が、気合の入った薪集めを見せてくれた。
蕨峠への道の残る「五淵ノ平」までは、さらに三キロの溯行が必要だった。そこまでにも何カ所かの渡りがあって、むろん痕跡は残されていないが、ともあれ難関は越えたことになる。ここからは快適な泊り場を求めて溯行する。残照を浴びた左岸の砂地に適地があった。稜線とは趣を異にする宿だ。野趣あふれる夜を迎える女たちの顔が輝き、山の端に落ちゆく陽光に向かって、杯を捧げて旨酒を呑む。
それにしてもと、ひと息ついて考える。一の渡りの下流には、里から連なる河岸段丘の道が両岸に延びていたはずである。ゼンマイ採りの使った道で、数年前までは確認されているが、その道を旅人はたどらなかったのだろうか、と。ゼンマイは古事記にも登場する山菜で、古くから山里の人々に欠かせない山の恵みだったことは間違いないのである。
母なる荒川を生みだす女川は、たおやかで豊かな流れゆえに名付けられたのだろうが、そこには、ときに荒れ狂う女の黒髪のごとき姿が投影されていたのではないかと思うのは、か弱い男の邪推であろうか。
河岸段丘の杣道は、やがては断崖に阻まれていくどかの徒渉を余儀なくされたはずであり、山里の人々の仕事道にはなりえても、ついに旅人が踏み入る道にはならなかった。
【取材協カ:亀山東剛】
地図製作:オゾングラフィックス
高桑信一 たかくわ・しんいち
1949年、秋田県生まれ。作家、写真家。「浦和浪漫山岳会」の代表を務め、奥利根や下田・川内山塊などの渓を明らかにした、遡行の先駆者。最小限の道具で山を自在に渡り、風物を記録する。近著に『山と渓に遊んで』(みすず書房)、『山小屋の主人を訪ねて』(東京新聞)、『タープの張り方、火の熾し方 私の道具と野外生活術』『源流テンカラ』(山と溪谷社)など。
出典:好日山荘『GUDDÉI research』2018春号
【短期連載】高桑信一の「径 ━━ その光芒」女川古道 其の壱
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