- 山と雪
【短期連載】高桑信一の「径 ━━ その光芒」万世大路 其の弐
2018.10.29 Mon
目的によって拓かれる径は、それを失うことで野に還ってゆく。消えゆく古道にかすかに漂う、かつての幕らしや文化、よすがに触れてみたい。草に埋もれ、忘れ去られた径をたどる旅。山形側から入山し、崩落した栗子燧道を撒いて、強風の彼方へ。
降り立ったのは、烏川支流の滑谷の下流であった。春の雪解け水に溢れていたが、幸い滝もなく、上流をめざす。
江戸時代にいたるまで、物流の主役は舟運であった。山形県もその例に漏れず、県内の産物や産出米などは、最上川などから海路を経て、遠く大阪まで運ばれたのである。
それは奥羽山脈という険阻な山波に流通を阻まれているためでもあった。最上川や荒川を遡った産物は人馬に負われて細々と峠を越え、仙台や福島に運ばれたのだ。
しかし新しい時代の要請は、陸路による大量の物資の流通であった。万世大路は、当時の山形県令の三島通庸の独断と、言われているが、それは少し違う。
事実、万世大路の建設が許可になる前年の明治9年、のちに福島県令となる山吉盛典参事がみずから調査に赴き、道路建設の上申を行なっているからである。
したがって、万世大路は山形・福島両県の要望によって開かれた道というべきだが、問題は、その建設を強引に推し進めた三島通庸という人物である。
どうも彼には独断専横の匂いがする。万世大路は開通後数年にして鉄遣に主役の座を奪われるが、現在の流通を思えば、結局道路は物流の両輪としで鉄道とともに欠かせない存在になっていくのだから、三島の先見は正しかったと言わざるを得ない。
鬼県令と呼ばれて怖れられた三島の専横は、はたして彼の個性だったのだろうか。私はそこに、どうしても戊辰戦争の影を見てしまう。
薩摩藩出身の三島通庸は戊辰職争に参加している。鳥羽伏見の戦いに加わり、一説によれば会津若松城の落城を目にしている。
戊辰戦争は明治維新を先導した西南諸藩の戦略的な戦であった。東北の諸藩は徹底的に戦ったが、なにもはじめから戦を好んだのではない。東北諸藩を完全に叩きのめし、発言権を奪わねば、新しい時代の到来はなしえないと考えた西南諸藩がいやがる車北諸藩に無理やり喧嘩を仕掛けたの が戊辰戦争であった。その意味で言えば、西南諸藩のやり口はきわめてあ<どい。
明治に入って廃藩置県が行なわれ、酒田県令として赴任した三島は、そののち山形県令となって、万世大路完成の翌年、福島県令になるのだが、終始一貫、彼の峻烈な手法は変わらなかった。
内務卿、大久保利通の懐刀といわれた三島のまなざしの背後に、私は戊辰職争から連なる東北の民への監視と蔑視を見てしまうのだ。彼は明治政府から送りこまれた冷徹な尖兵であった。そこに、東北の民への温かなまなざしは感じられない。
福島県令になった三島が引き起こした福島事件がいい例で、隣接する県への「会津三方道路」の建設に、住民を強制的に従事させたため、折からの自由民権運動との軌轢を深め、反逆者の逮捕、投獄に至った事件である。
しかし、彼の専横がなけれぱ、東北の近代化はさらに遅れたであろうから、あながち嫌ってもいられない。いわば万世大路は、のちに警視総監となる三島通庸の、光と影の狭間を映しているといえるだろう。
山形側の坑道内部。落盤のあとが痛々しい。この先200メートルでトンネルは埋まっていた。
こちらは福島側の坑道。足元には水が溜まり、とても内部に進める状況ではなかった。
強い風の彼方へとつづく径
山形県側の栗子トンネルの探訪を終えた私たちは、山越えの道を探し求めた。幸い、トンネルの左に林道のようなものが見え、ビンクの目印が付いていた。
それを200メートルほどたどると、右手の山肌を直上するように径がつづいている。それはもう確信のようなもので、私たちは迷うことなく、明瞭に連なる小径を登った。
もしかしたら、と考えたのは、晴れ間が消えて風が強まりだしたときである。多くの道には前身がある。炭焼きの径や山菜採りや鉱山への径などだ。たとえぱ現在の国道13号の前身が万世大路で、その前身が板谷街道だとしても、周囲に無数にあった山仕事のための小径のひとつを、万世大路が踏襲したとは考えられないだろうか、と。
そう思わせるほど、決して広<はないが、よく手人れされた径が急峻な山腹を縫ってつづいていた。もしこれが万世大路の原型なら、ひとつの発見だ、と高ぶった私を打ちのめしたのは、尾根にたどり着いたときだった。
あれほど明瞭だった径が忽然と消えたのだ。あたりは草原で、登ってきた背後の斜面以外のどこにも径らしきものはない。折から風が強まり、雪さえ降りだした。ここで足踏みしていては遭難さえしかねない。
栗子トンネルの福島県側の出口は東南方向にあるはずで、ここはひとまず風を避けて高度を落とし、斜面を右手にたどればトンネルに出られると判断した私は、そのまま東方の沢に踏みこんだ。
強風を避けてタープを張る。風は夜通しタープをはたくが、住めば都と微動だにしない。
しかし、そこで誤算がもうひとつ生まれた。登ってきた西面の山肌には雪がまったくなかったのに、下りはじめた沢には残雪が詰まっていたのである。いかに千メートル程度の低山といえど、舐めてかかると痛い目に合う。
高度を落とすにつれて、残雪の切れ問に滝が現れはじめた。その滝をかわすようにして残りの斜面を右へ右へと振りながら高度を落としていく。
やがて沢がなだらかになり、本流近しを思わせる。だが、いくら高度計を睨んでも、右手に出てくるはずの坑道が現れない。
そしてついに本流と合したとき、事情が呑みこめた。私たちは本来降り立つはずの烏川の支流、滑谷沢の下流に降りてしまったのだ。
このまま遡れば福島側の万世大路の橋に出る。坑道は、その先1キロの場所にある。
そうとわかれば、あとはテント場を探して夜を過ごすだけである。坑道をめざすのは明日でいい。
しかし風が強かった。あのまま稜線で径探しをしていたらどうなっていただろうと思わせるほどの風が谷間に吹き荒れていた。
ようやく風を避けられる平地を見つけてタープを張り、薪を集めて焚き火を熾してひと良つく。
焚き火の炎を見つめ、酒をちびちび舐めながら来し方をふりかえる。
私たちが越えたのは栗子山の稜線である。栗子山は、もともと地元では杭甲山と呼ばれていたものが、万世大路の建設にともなって栗子山と改名したのである。
しかし、地元の大杭甲、小杭甲、さらには地理院の栗子山と内務省の栗子山が錯綜していて、どこがなにやらわからない。ともあれ私たちが越えたのは、地形図上の1202メートルピークの北方であることは問違いなく、あのビークを南に越えて下らなければ坑道には至らない。
それがわかれば、下った沢も楽しかったと思えてくるから不思議なものだ。
翌朝風はすでに止んでいて、東北の山波が見事に晴れわたっていた。
【資料提供:鹿摩貞男『万世大路読本』】
高桑信一 たかくわ・しんいち
1949年秋田県生まれ、作家、写真家。「浦和浪漫山岳会」の代表を務め、奥利根や下田・川内山塊などの沢を明らかにした遡行の先駆者。最小限の道具で山を自在に駆けめぐる。近著に『山と渓に遊んで』(みすず書房)、『タープの張り方、火の熾し方 私の道具と野外生活術』(山と渓谷社)、『山小屋の主人を訪ねて』(東京新聞)など。この2月、最新刊の『源流テンカラ』(山と溪谷社)を上梓。
出典:好日山荘『GUDDÉI research』2016秋号
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