• 山と雪

【短期連載】高桑信一の「径 ━━ その光芒」清水峠越え 其の壱

2018.11.28 Wed

目的により拓かれた径は、それを失うことで野に還ってゆく。消えゆく古道にかすかに漂う、かつての幕らしや文化、よすがに触れてみたい。草に埋もれ、忘れ去られた径をたどる旅。

清水集落の外れにたたずむ小さな社は、いつの時代からここに祀られ、集落と旅人を守ってきたのだろうか。

 バスが清水の集落に着いたとき、雨が本降りになった。霞む山肌を切り裂く無数の銀の糸が、寡黙に佇む山間の家々に降り注いでいた。

 トイレを兼ねたバス停の待合所で雨を避けながら、峠越えに向かった古の旅人の苦難を思い、先ほどまで雨の気配など微塵もなかった秋の空を懐かしんだ。

 六日町に向かう高速バスが関越トンネルに差しかかるまで、この夏から秋にかけての不順な天気の憂さを晴らすかのように、一片の雲もなく晴れわたっていたのである。

 車窓から望む谷川岳が、青空の下で色づいた山巓を際立たせていたのに、トンネルを抜けたとたんに雲が湧き乱れ、六日町ICから駅まで歩くあいだはどうにか持ちこたえた空が、清水行きのバスに乗りこむのを待っていたかのように破綻したのだった。

 雨は止みそうになかった。しかし待ったところで解決策はなにもない。どうせ途中の川原でタープを張るしかないのだからと、覚悟を決めて歩き出す。

 劇的な天候の急変は、脊梁山脈に近い越後の山里の、冬を間近に控えた季節の洗礼に他ならなかった。

 雨の車道を3キロほど歩いた後、登川の川原に適地を見つけてタープを張る。

 かたわらの車道を工事用のダンプが轟音を立てて行き交うが、一般車は通行できない。たとえ通れたとしても、この先の檜倉沢の砂防ダムで車道が尽きて山道になる。そこから先は徒歩でしか通れない道だが、これが歴とした国道291号線の現在の姿であった。

 国道291号線は、群馬県前橋から新潟県の柏崎を結ぶ186キロの一般国道だが、谷川岳の清水峠を中心とする15キロは徒歩でしか通ることができない。このような国道を「点線国道」と呼ぶ。地形図では徒歩の道を点線で示すからである。

 清水峠にかぎらず、新潟と福島を結ぶ「八十里越え」をはじめとして、全国には、まだ多くの点線国道が遺されている。

 しかし国道291号線が特異なのは、明治18年8月に開通したこの道が、その年の冬を迎えるわずか2か月後には崩壊がはじまり、それでも3年ほどはどうにか通行できたものの、23年には民間人が拓いたバイパス道によって見捨てられ、過酷な自然に呑みこまれたまま現在に至っていることだ。つまり正確にいえば徒歩ですら通れない国道なのである。

 関東から越後に抜ける動脈は、古くは三国峠と上越線であり、その後、関越道と上越新幹線が参入して繁栄を極めているが、起源も定かではない幹線道路が戦国の昔から存在していた。それが清水越えである。

 廃道となった国道291号線を含めて、清水越えには3本のルートがあった。井坪坂コースと十五里尾根がそれである。

国道の途中にあった、謙信尾根への分岐の木柱。

 十五里尾根の由来は、群馬の水上から新潟側の清水まで十五里あったからだとされる。それが謙信尾根とも呼ばれるのは、昭和初期の上越線の送電線工事に携わった関係者によるもので(「谷川岳エコツーリズム協議会」HPより)、なにも上杉謙信が軍勢を率いて通ったわけではない(同前)。

 謙信は、室町時代末期の天文21年以降、14度におよぶ関東出陣を行なっているが、いずれも三国峠を用いている。

 しかし、清水越えにも偵察や斥候を派遣している事実があり(『南魚沼郡誌』他)、広義に捉えれば謙信の道と呼んでも間違いではないだろう。

 謙信が清水越えに未練を残したのは、それまで間道のように使われたこの道が、険しいものの三国峠に比べて距離が近く、しかも人目に付き難かったからだと思われる。

 やがて北越を制覇した上杉景勝が、秀吉によって会津に移封されたのを契機に、清水越えは衰微を重ね、江戸時代に入って幕府は三国峠を整備し、湯檜曽と清水に口留番所を置いて、許可を取った者以外の清水越えの通行を禁じた。その措置は明治の初めまで200年にわたってつづくことになる。

 もちろん、許可を得た者たちが細々と歩いた道があった。その経路は後述する。

 明治に入って上州と越後を結ぶ清水越え古道が近さのゆえに脚光を浴び、明治6年に新道を開削。明治18年には馬車が通れる国道8号線(現在の291号線)を完成させるが、前述のとおり崩壊の憂き目をみたのは、距離の近さに惑わされたためである。

 登山者なら旧知のことだが、AB間を結ぶ道が2本あるとして、長い道は、時間はかかるが傾斜はゆるく、距離の短い道は、時間は早いが総じて険しい。

 現地調査を繰り返したはずの明治の技術者たちは、その陥穽に気付かないまま、脊梁山脈の山肌に幅5・4メートルの馬車道を拓こうとしたのだった。壮大な愚行というべきこの道が反省をともなって、その後の国道17号線や関越道に繋がり、いまでは廃道マニアや酷道マニアの垂涎の的になっている。

越後の鋭鋒として知られる大源太山にも、謙信ゆかりの径が刻まれている。

 雨は夜半まで降りつづいた。登川の沢音が高くなったが、増水するほどではなかった。冬が近づくにつれて、越後の山里は晴れたと思うと雨になり、それが霙に代わって雪になり、やがて重い湿雪が膨大に降り積むのである。

 その雪が、山里はもとより、古くから上州と越後を行き交う旅人を苦しめてきた。関東に覇を唱えようとした謙信が、ついに野望を果たせなかったのは、軍勢を分断して補給路を断つ、魔物のごとき脊梁山脈の雪のためであった。

 表日本と裏日本という呼称が、いつ消えたのか定かではないが、知らぬ間に日本海側と太平洋側に置き替えられたのは、おそらく差別的な意味合いを避けたのだ。

 表日本、裏日本と呼んだのは明治に入ってからで、太平洋岸に経済と工業を集積したためであった。しかし中世以前、日本の表玄関は日本海にあった。文化の流入をもたらし、交易の相手でもあった中国や韓国との長い歴史がそれを物語っている。

 中世以降、相互の立場は逆転し、江戸幕府は太平の世を招いたが、それは太平洋岸が外敵の侵入を受けなかったからでもある。ペリー来航が200早まっていたなら、日本の版図は大きく変わっていたに違いない。

自堕落なホームレスにも見える野宿は、野宿を共にする旅の重要なアイテムだ。

 風が出て沢音が大きくなった。深い闇のなかで焚き火の炎が安らぎを与えてくれる。古の旅人たちは、どこでどのように過ごしたのだろうか。

 雨が止んで冷えこみが増したようだ。シュラフに滑りこんで、ちびちび飲み、とろとろとまどろむ。

 明日は清水峠を越える日だ。

【参考文献:『南魚沼郡誌』大正9年発行、南魚沼教育委員会、北越新報社。ほか。】


高桑信一 たかくわ・しんいち
1949年、秋田県生まれ。作家、写真家。「浦和浪漫山岳会」の代表を務め、奥利根や下田・川内山塊などの渓を明らかにした、遡行の先駆者。最小限の道具で山を自在に渡り、風物を記録する。近著に『山と渓に遊んで』(みすず書房)、『山小屋の主人を訪ねて』(東京新聞)、『タープの張り方、火の熾し方 私の道具と野外生活術』『源流テンカラ』(山と溪谷社)など。

出典:好日山荘『GUDDÉI research』2017春号

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