- 山と雪
【短期連載】高桑信一の「径 ━━ その光芒」清水峠越え 其の参
2018.12.21 Fri
目的により拓かれた径は、それを失うことで野に還ってゆく。消えゆく古道にかすかに漂う、かつての幕らしや文化、よすがに触れてみたい。草に埋もれ、忘れ去られた径をたどる旅。
日没寸前に到着した蓬ヒュッテは、満員に近いにぎわいであった。詰めてもらった席の向こうで、高波菊男さんが「もう10年になるかねえ」と声をかけてくれた。
高波さんは、谷川岳の開拓に全力を注いだ「ヒゲの大将」こと高波吾策の息子で、苗場山頂にあった山小屋「遊仙閣」の経営者として知られた人物だ。
その遊仙閣が2009年、所有者の西武の都合で休業に追いこまれ、同じく西武の所有になる蓬ヒュッテに拠点を移したのである。
私が、山岳雑誌『岳人』の連載取材(「山小屋の主人を訪ねて」―のち同名の単行本として東京新聞社から出版)で遊仙閣を訪れたのは休業する前年の夏だから、正確には8年ぶりの再会だった。
積もる話は、消灯後も彼の居室に場所を移してつづき、痛飲して旧交を温めた。
晴れの予報を信じて、のんびりと発つ。歩きはじめてほどなく、山稜を閉ざしていた霧が少しずつ開かれ、やがて谷川岳東面の雄大な展望を押し広げていく。3日目にしてようやく訪れた、快晴の朝だった。
谷川岳の山頂に向かう馬蹄形の登山道を右に見送ると、清水街道は、いくつもの小沢を横切って大きく下り、白樺避難小屋で清水峠から水平に伸びる旧国道と合流する。
道端に、古い鉄板がオブジェのように転がっていた
白樺の小屋は、4、5人がやっと泊まれるほどの小さな小屋だ。清水峠の白崩小屋とともに避難小屋として登山者に提供されているが、そもそもはJRの所有で、送電線を維持管理する職員のためのものだ。
送電線は、信濃川の水力発電所から清水峠を越えて首都圏まで延びており、電力会社に依存しないJR独自の電力として稼働しているが、架設されたのは昭和の初期、国鉄の前身である鉄道省による。この送電線の存在が避難小屋をもたらし、清水峠をめぐる登山者に与えた功績は大きい。
白樺避難小屋を後にすると、すぐに新道を左に分ける。白樺尾根に刻まれた標高差400メートルの急坂を降りると、新道は湯檜曽川に添って土合に続いている。
白樺小屋を後にすると、遠く清水峠の監視所が見えた
つまり、明治18年に開通した国道8(現在の291)号は、江戸時代から歩き継がれた明治7年改修の新道を白樺避難小屋の地点で水平に横切り、馬車を通すために傾斜を緩やかにして清水峠に向かわせたのである。
ここで紛らわしい道の呼称を整理しておきたい。私たち登山者の多くは、国道291号を「旧道」と呼ぶ。すなわち土合から一ノ倉沢までの車道の延長にある「旧国道」の<国>を省略して旧道と呼ぶのである。これは現地にも「旧道」と記された標識があるからだが、その呼び方が混乱のもとなのだ。
並行する2本の道のそれぞれが旧道と新道であれば、だれでも旧道のほうが古いと思うに決まっている。しかし、国道291号にかぎっては新道のほうが古いのである。
つまり、明治7年に改修した清水越えの新道が湯檜曽川に添い、白樺尾根から蓬峠を越えて存在しており、その新道を横切って明治18年に開通した国道8(現291)号が通行不能に陥って、旧国道になったのだ。
このあたりの前後関係をきちんと把握しておかないと、清水峠をめぐる道の輪郭は見えてこない。
だが、そもそも旧国道という呼び方自体がおかしい。車道の通行が不能になったとはいえ、国道291号は現役国道のままである。いまだに国道の廃線申請がなされていないからだ。したがって正確を期すなら、登山地図に「国道291号(車両通行不能区間)」とでも記載すべきなのである。
路傍につづく、苔むした旧清水越えの明治の石組み
新道を見送って旧国道(便宜上地形図のまま呼ぶが)を進む。いい道である。新潟側の旧国道は、すでに山に呑みこまれて分け入ることさえ不可能だが、群馬側は、荒れてはいても登山道として歩かれている。まして道のない渓谷ばかり歩いている私にとっては一級国道にも等しい快適さだった。
ふり返ると、清水峠のJR送電線監視所の三角屋根が、澄みわたった秋空の下に小さく望まれた。
右手に高くそそり立ってくるのは、谷川岳東面の岩壁の群れだ。
武能沢の崩壊地点をロープにすがって越え、さらに尾根を大きく曲がり終えると、堅炭尾根を頭上に仰ぐ芝倉沢にたどり着く。
ここからようやく未舗装の道になる。右手の山側に、旧清水越え国道の石垣が連なっている。このあたりが、もっとも良く当時の面影を宿しているのだろう。
やがて旧国道は、東面の峻烈な岩壁の裾をめぐるようになる。幽ノ沢、ーノ倉沢、マチガ沢。若き日にかよった懐かしい岩壁の群れだ。なかでもーノ倉沢は、仲間を目前で失った痛恨の谷だった。出合に点在する岩のあちこちには数多くの慰霊碑があり、遺族の手によって手向けられた花が秋の陽を返している。
魔の山と呼ばれ、これまでに命を落とした遭難者は800名を超えるが、その多くはーノ倉沢の登攀者である。
色づく紅葉をまとったーノ倉沢の岩壁の威容が眼前にあった。出合には、車両規制になっている車道を歩き、あるいは乗合バスでやってきた観光客が、多くのクライマーの命を奪った岩壁だと知ってか知らずか、のんびりと眺めて楽しんでいる。私たちもまた道を外れ、河原に降りて昼食を摂る。
この道を歩いた古の旅人たちは、どのような思いで、天を圧するような凄まじい岩壁を眺めたのだろうか。まさか登ってやろうとは思うまいが、すごい岩山があるものだ、とは思ったに違いない。そんな当時の旅人に、私は羨望の念をいだく。
というのも、大島亮吉(1899-1928 登山家。近代登山の発展に寄与したが、昭和3年、前穂高北尾根で墜死、享年29)が、谷川岳の岩壁を探し求め ―近くて良い山なり― と、死後の翌年に発刊された、所属する慶応大学山岳部報『登高行7号』で報告することになる、そのはるか以前、やがて日本の登山史に燦然と輝くことになる珠玉の岩壁群を、何気なく眺めやった旅人たちは、たとえ山に登らなくても幸福だったと思えてならないからである。
山を下りて、登山口にある「みなかみ町山岳資料館」に立ち寄ったら、管理をしている馬場保男(元谷川岳警備隊長、のち肩ノ小屋管理人)さんがいらした。
お茶を私たちに勧めながら、もしかしたらあの道は、トレイルランナーのために整備するかもしれないと教えてくれた。旧国道がトレランに適しているかはわからないが、理由はどうあれ、歴史の道が整備されるのはうれしいことだ。たとえば山麓トレッキングとして歩かれてもいい。
みなかみ町行きのバスを待ちながら、旅の終わりを楽しんだ。なにやら歴史を駆け抜けた、不思議な気分に浸ったのである。
【参考文献:『山と高原地図』16谷川岳(昭文社)、『目で見る日本登山史』(山と渓谷社)】
高桑信一 たかくわ・しんいち
1949年、秋田県生まれ。作家、写真家。「浦和浪漫山岳会」の代表を務め、奥利根や下田・川内山塊などの渓を明らかにした、遡行の先駆者。最小限の道具で山を自在に渡り、風物を記録する。近著に『山と渓に遊んで』(みすず書房)、『山小屋の主人を訪ねて』(東京新聞)、『タープの張り方、火の熾し方 私の道具と野外生活術』『源流テンカラ』(山と溪谷社)など。
出典:好日山荘『GUDDÉI research』2017秋号