- 山と雪
【遊び場の探し方】ルートマップを手放して、山の名前を見つめ直してみる
2020.07.23 Thu
壽榮松孝介 インタープリター
「来週はどこで遊ぼう?」
「来月の連休はどこに登ろう?」
アウトドア好きのみなさんは計画を練るとき、どんな方法で遊び場を決めていますか? 登山のルートブックを眺めてみたり、インターネットで先人の記録を探してみたり。そんな人が多いかと思いますが、たまには少しちがう方法で遊び場を探してみると、新たな楽しみが見つかるかもしれません。
たとえば、「名前」を入り口に遊び場を探してみましょう。
山には名前のあるものと、ないものがあります。正確にいうなら、「人が名前をつけた山」と「つけなかった山」。もっと正確にいうなら、「人がつけた名前が世に知れわたっている山(たとえば地図に載っている)」と「そうでない山(名前がつけられなかった。もしくはごく少数の人の間でしか、つけられた名前を使っていない)」です。
神の住む山として崇めた人々が信仰の対象として名前をつけたり、暮らしの糧を得る山を後世に継いでいくために名前をつけたり、冒険の対象として踏破した探検家が登頂の証として名前をつけたり。山の名前を眺め、調べてみると、さまざまな背景とそこに込められた想いが垣間見えます。
これからの季節、避暑を求めて楽しみたくなる “沢” の名前も興味深く、もはや名前を調べること自体が遊びになってしまいそうです。山には尾根があれば、その隣に沢があり、地図を眺めると「名もなき尾根」はたくさんある反面、「名もなき沢」はあまりないことに気がつくかと思います。
国土地理院が発行する2万5千分の1の地形図。沢に名前がついていることがわかる。
近代登山文化の定着によって、登攀の対象として登られた尾根には名前をつけられたものが多く存在する。
ひとむかし前の日本の暮らしを考えると、沢から水を引いたり、魚や山菜などの食糧を得たり、峠(沢と沢の合流点)を越えて隣の村をめざしたりと、日常における沢の利用価値が尾根よりも高かったことが想像できます。
—— 同じひとつの谷川の落合でも、猟のためにその付近に出かけるくらいの者であれば、これに川合とか川俣とかいう簡単な名をつけておけばよろしい。数の観念がこれに加わっても一ノ沢・二ノ俣というような名ですましておくのである。またもう少し観察力が細かくなったところで、その辺の草木に注意して三本松とかウルイ沢くらいの名をつけておけば十分である。それがいま一段進んでその辺で炭を焼く、石灰を焼くとかいう段になるとそれではすまぬので、あるいは炭焼沢であるとか、灰谷であるとか、七之助であるとかいう名をつける。 —— (『地名の研究』著:柳田國男/講談社学術文庫)
書籍『地名の研究』では、沢の名前の付け方について、このように記されています。誰が、いつ、どのように名前をつけたのかは調べきれない場所も多く、「名前」という入り口の先には、ロマンあふれる世界が広がっているように思えます。
ここからは私自身の体験によるものであり、あくまでも主観的な考察になってしまいますが、沢の名前と、沢の様子との関係性に少し触れてみたいと思います。
「淵」「渕」という漢字がついた名前の沢は、淵(フチ)や瀞(トロ)と呼ばれる、静かで深い流れの場所が見られる沢が多いように感じます。「釜」「深」といった漢字では、釜(カマ)と呼ばれる滝壺が多く見られる沢とともに、夏の避暑にはうってつけの沢が多いような。
あぁ、地形図を眺めるだけで、ドボンと飛び込みたい衝動に駆られます……。
赤い岩と、ゆるやかな流れの淵が多く見られる「赤渕川(アカブチガワ)」。
夏の終わりに、ゆったりと沢を楽しみたい人は「滑」の漢字がつく沢がいいかもしれません。読んで字のごとく、滑(ナメ)と呼ばれる、流れの緩やかな一枚岩が見られる沢が多いように思えます。「洞」「悪」「暗(倉)」の漢字がつけば、「ゴルジュ(フランス語で「喉」の意味)」と呼ばれる、切り立った壁に挟まれた狭い場所が多く、「滝」「棚」がつくと、大きな滝が多いような気がします(いっぽう、「棚」という言葉を辞書で調べると、「山の傾斜のゆるくなったところ」と出てくるのが不思議です)。
そのほかに、「魚」「美」「白」「赤」「黒」などは説明するまでもないですね。色やうつくしさなどの見た目を表しています。このような、様子がイメージできる漢字がつく名前の沢も多く見られます。
「志遊美谷(しゆうみだに)」という名のついた、眺めて美しく、入れば遊べるすばらしい沢。
もちろん、上記の予想が見事に丸ごと外れることだって多々あります。好きなあの子に一目惚れするように、地図上で偶然出会ったステキな名前の沢に胸踊らせて、貴重な休みに遠征してみたら、ガレた涸れ沢登りを楽しむ羽目に、なんてことも数知れず。「ふざけた名前のルートに取り付いたら、思いのほかむずかしくてヒヤヒヤした」という、“クライミングあるある” に近いかもしれません。
そんな甘酸っぱい経験を差し引いても充分に余るくらい、ルートマップを入り口にしては味わえない冒険を楽しむことができます。登る楽しみだけでなく、登る前の妄想も楽しめて二度おいしい登山。聞いたこともないアーティストのCDを思わずジャケ買いして、どんな曲が入っているのかハラハラワクワクする時間を楽しむような登山。そんな登山がたまにはあってもいいんじゃないかと私は思います。
沢の名前ではないが、「硯島村(すずりしまむら。現在は合併により廃止のため旧名)」のそばを流れる沢には、硯(スズリ)に使えそうな石がチラホラ。のちに調べると、硯の生産が盛んな地域だった。
先人たちによってつけられた名前から沢の様子を想像して足を踏み入れるという行為は、自由度が極めて高い反面、当然、情報量が豊富なルートの登山とは比にならないような危険がともないます。標識がなく、整備されていない道なき道、電波も人の気配もない場所では、小さなケガが、誇張抜きで命取りになります。ルートマップに載っている登山道であっても、「安全なルート」なんていうものは存在し得ないですし、リスクをとらないのであれば家に引きこもるのがベストだともいえます。一概に「これが危険」とはいいきれませんが、楽しさの裏に潜むリスクを理解し、行動したいですね。
今年の夏は、赤いルート線ではなく、ステキな山の名前と自分のインスピレーションをたどる登山に挑戦してみてはいかがですか?