- 山と雪
クロスカントリースキーを通して実感した、長野県飯山の自然文化とフィールドの魅力【後編】
2021.03.19 Fri
渡辺信吾 アウトドア系野良ライター
前編でも紹介したように、私たちにクロスカントリースキーの魅力を教えてくれた服部正秋さんは、長野県飯山に生まれ、幼いころからスキーとともに育ち、現在はゲストハウスKokuto iiyama homeを営んでいる。学生時代はノルディックスキーの競技者として、ノルディックスキーの本場フィンランドへ留学。今も指導者、教育者としてクロスカントリースキーの普及に努めている。そんな服部さんの生家は、日本のスキー黎明期でもある大正初期から昭和に至るまで、KOKUTO SKI WAXという国産スキーワックスを製造販売していたという。今回は服部さんにスキーワックスを扱っていた当時の話や飯山のスキー文化、そして、今後の夢などについて話しを聞くことができたので紹介したい。
その前に、まず飯山という土地について簡単に紹介しよう。長野県の北端、いわゆる北信州にあり、新潟県との県境に位置する。斑尾高原、木島平、野沢温泉、戸狩温泉などのスキー場に行かれたことのある方にはお馴染みの地域だろう。しかし、スキー場周辺の旅館や民宿に宿泊したり、温泉や商店などを利用したりすることはあっても、なかなか飯山の市街地に足を運ぶことは少ないのではないだろうか。かくいう私も、足繁く通ったエリアなのに国道117号沿いしか知らなかった。
飯山の歴史を紐解いてみると、戦国時代に上杉謙信が、勢力を拡大する武田信玄に対抗するために、千曲川左岸に飯山城を築城した。さらに江戸時代には飯山藩の城下町として栄える。藩主である譜代大名が目まぐるしく入れ替わるごとに大名家近在の寺院を呼び集めたとされる。飯山には今なお20以上の寺社があり、特に愛宕町周辺には街を取り囲むように、お寺が隣接して立ち並んでいる。このような背景から仏壇・仏具を取り扱う店が今も軒を連ね、寺町文化が栄え現在に至っている。
明治45年。上越高田でかのレルヒ大佐にスキー講習を受けた旧制飯山中学の体操教師であり、妙専寺の住職でもあった市川達譲氏が、長野県に初めてスキーを伝えたとされる。氏の回想録によると、高田での10日間にわたる講習を終えて二台のスキーを持ち帰り「翌朝スキーを履いて家を出ましたが、家族の珍しがって見送る前を得意然として大門を滑走し、町に出て城山に上り、中学校の傾斜地を利用して滑走しました…(後略)」と語っている。その「大門」こそが妙専寺の参道、境内から愛宕町に伸びるゆるい坂道であり、Kokuto iiyama homeはまさにその参道の横にある。
Kokuto iiyama homeのすぐ隣にある緩やかな参道こそ、長野県で初めてスキー滑走された場所。当時のスキー滑走は一本杖スキーだったそうだ。奥に見えるのが妙専寺の境内
── 市川達譲さんが初めてこの隣の坂でスキーを滑走したその年に、この愛宕町で家具職人をされていた小賀坂濱太郎さんに、スキー板の製造を依頼されたんですよね?
服部: そうですね。記録にも残っています。正確には達譲さんがスキーを体育教育に取り入れるよう学校に進言して、当時の校長先生が小賀坂さんに依頼したようです。当時の小賀坂さんもここから数軒先のすぐご近所にあったそうです。うちの前身は穀藤商店(穀藤本店)というろうそくに使う蝋の製造販売や穀物の販売をしていて、その翌年にはスキー用のワックスの製造を始めたようです。
── 穀藤商店さんにスキー用のワックスづくりを命じたのも市川達譲さんなんでしょうか?
服部: そのように聞いています。ご近所付き合いもあるでしょうが「どうやらスキーというものにはロウを塗るらしいから作ってくれよ」みたいな感じだったみたいです。穀藤商店の初代が藤七、曽祖父に当たる二代目が藤吉といいまして、ワックス製造は藤吉のころがメインだったようですね。
服部さんのご実家の倉庫から発見されたKOKUTO WAXの容器。デザインがとてもハイカラだ。イラストのスキーヤーのヒールが浮いていることからも、当時は歩くスキーが当たり前に楽しまれていたようだ
── この印刷物はいつごろのものなんですか?
服部: いつごろのものかは特定できないんですが、おそらく大正から昭和初期のものじゃないかと。つい最近うちの倉庫を整理していたら出てきたんですよ。僕が小さいころ、三代目に当たる僕の祖父の正義(まさぎ)や祖母から、昔うちはろうそく屋で、そこの住職さんに勧められてスキーのワックスも作ってたんだよ、って話は聞いてはいたんですが、その当時は特に「へー、そうなんだぁ」ぐらいにしか興味がなかったんです。ここにあるような印刷物も容器も見たことなかったですし。
── では服部さんが物心つくころには、もうその商売はされていなかったんですね。
服部: そうですね。そのころにもっと関心を持っていれば色々と聞けたんでしょうけど……。
当時の印刷物。パッケージや梱包に貼付されるものだろうか? 英語表記なのも興味深い。海外にも出荷されていたのだろうか? それとも在日外国人向け?
── この「KOKUTO WAX」はいつごろまでやってたんでしょうか?
服部: それが定かではないんですよ。当時を知るご近所の方もご高齢で亡くなっていたりして、詳細は調べようがなくて。ただ「穀藤商店」自体は、祖父の代で終わっています。自分が生まれたころには、もう穀藤商店はありませんでした。祖父はお店を畳んで市役所の職員として勤めていたようです。ちなみにこの建物自体は昭和43年に建てられたものなんですが、もともとお店があった場所に当時珍しかった4階建ての建物を建てて、アパートとして貸し出していたんです。それを昨年、リノベーションしてゲストハウスKOKUTO iiyama homeにしました。
同じ場所の昔と今。上の写真は昭和12年のもの。看板には「蝋燭雑貨穀藤本店」。通りをまたぐバナーには「スキーワックス コクトウ」と右横書きで書かれている。当時のメイン商材だったのだろう。軒下に達するほどの積雪量の多さにも目を見張るものがある
── おじいさまはスキーはされていたんでしょうか?
服部: スキーの選手でもあったようです。それこそ市川達譲さんらに教わって始めたようです。祖父が当時クロスカントリースキーをやっていたような写真も出てきたんですよ。
おじいさまの正義さんのお写真。スキーの選手だったことがわかる
昭和11年に開催された飯山青年スキー大会で優勝されたときのお写真
── 失礼ですが、お父さまは?
服部: 父は祖母方の親戚筋で、養子としてこの家に入った人でして、実は一度もスキーを履いたことがないんです。対して母は飯山で生まれ育って、クロスカントリースキーの選手でした。
── 服部さんはお母さまのアスリートの血を引いてるんですね~。現在も、指導者として活躍されていますが、スキーを職業にしようという意識はありましたか?
服部: 小学生からスキーをやってきて、中学、高校と学校教育の中でやっていく上では、競技としてスキーをがんばるという純粋な動機があって、大学生でも競技者としてさらに上を目指していきたいという想いは常にありました。
── この辺りだとやはり学校スポーツとしてスキーと接するんですね。
服部: まず小学校までは体育授業の一環としてやりますし、中学では部活動ですね。そして、私は飯山南高校の体育科に入りました。学年に40人、3学年で120人全員がスキー部なんですよ。当時インターハイでも常に入賞していました。
── まさにスキーの名門高ですね。飯山南高だとやっぱりアルペンではなくてノルディックなんですか?
服部: スキー部120人全員がノルディックというわけではなくて、もちろんアルペンもあれば、クロカン、ジャンプ、コンバインド(複合)の選手もいます。
── 服部さんが、クロカンを選択されたのはどうしてですか?
服部: 母がクロスカントリーの選手だったというのも大きいですね。この辺の子どもはだいたい小学校1年生ぐらいからスキーをはじめるんですが、僕は当時、体が弱くて小4年からはじめたんですよ。それで、だんだんスキーが楽しくなって、大会にも出るようになりました。アルペンも楽しいんですけど、スピードが出るのが怖かったのかも。意外と臆病なんですよ(笑)。クロカンにハマってからはクロカンしかほとんどしなかったですね。
── クロカンって、滑って下るだけじゃなくて、走ったり登ったりもしますよね。なぜ子どものころに、そんな苦しいことに目覚めてしまったんですか?
服部: やはり母の影響ですね。母は、学生時代からクロスカントリーの選手で、高校を卒業してからは地元のスキーメーカーに選手として勤めていました。小さいころの記憶ですごく覚えているのが、段々になっている棚田がありますよね、雪に埋まった田んぼの段々を滑り降りる遊びに連れて行ってもらって遊んだのが、すごく楽しかった思い出があります。
── 素晴らしい原体験になったんですね。場所はどの辺ですか?
服部: まさに、すぐそこです。「ここからスキーの板持って歩いて行くよ」って言われて、どこに連れて行かれるのかなと思ったら田んぼですよ(笑)。
楽しそうに語る言葉や表情からも、地元のスキー文化やフィールドへの愛が伝わってくる
── そんな服部さんが、大学でもスキーをして、その後ノルディックスキーの本場フィンランドに行くわけですが、それはなぜですか?
服部: 大学を卒業してから、企業でスキーをやらせてもらっていました。日本って企業スポーツ(企業に所属してスポーツをする)の形が根強いですよね。私もその中で何不自由ない環境でやらせてもらっていて非常にありがたかったんですが、やっぱり時代が不景気になってくると、他所では廃部にしますとか休部になりますとか、そういう状況もあって。クロスカントリースキーもそうですけど、もっとメジャーなスポーツでさえそんなことになる、ちょうどそんな時代だったんですよ。2003、4年とか……。同じスキー仲間でも企業のスキー部が規模縮小となったり、廃部となったり、それで スキーをやめざるをえない人たちもいました。もちろんいろんな状況でやめてしまうこともあるんだけれども、好きなことをなんとか自分なりに続けていける形っていくらでもあるんじゃないかと思って。逆に企業におんぶにだっこになっているこういう形が、それをやりづらくさせてるのかなって。言い方は悪いですが、企業の顔色を見ながら、来年もやれるのかな、雇ってもらえるのかなとかビクビクしながら楽しんでスキーを続けられないし、なにかもっといい形はないのかなと思い始めていたんです。僕の所属していたところは非常によくしていただいていたんですが、周りの状況からも、そんな気持ちを抱いていました。ちょうどそのころ、関西日本フィンランド協会の交換留学制度というのがあって応募しました。僕の大学の先輩がフィンランドにいて、その方にも相談して、本場でスキー活動を選手として続けるのはもちろんなんですが、せっかくなので生活に根付いたスキー文化なども学びたいし、指導者となるためのコーチングや運動生理学なども学びたいということもあって、向こうで専門学校に通いながらスキー選手を続けるという道を選びました。
── 素晴らしい道を見つけられたんですね。
服部: フィンランドのロバニエミという北極圏のライン上に専門学校があって、学校の名前がサンタクルーズスポーツ専門学校、まさにサンタクロース村があるところですね(笑)。そこに通うようになってわかったのは、日本の企業スポーツという形と違って、フィンランドでは自分で小口のスポンサーをたくさん集めて選手活動を続けるだとか、企業スポーツに限らず町のクラブチームもありますし、それに二足のワラジ、三足のワラジは当たり前で、普通に仕事をしながら選手活動を続ける人もたくさんいます。そういうのを目の当たりにしてスキーの楽しみ方とかスキーとともに生きていく形ってすごくステキだなって思いました。
── 飯山との共通点とか、飯山で生まれ育ったからこと感じるものとかはありましたか?
服部: そうですね。スキーの環境として飯山だったらどういう風にできるかなとか、常にリンクさせて考えてはいました。今も自分の中にあります。飯山には7つ小学校があって、そこのコーチたちと話し合って、ようやくこれから動き出そうとしていることがあります。フィンランドではクロスカントリースキーのことを「ヒーヒト」、広場のことを「マー」というんですが、フィンランド国内にはヒーヒト・マー(クロスカントリー広場)が地域ごとにいくつもあるんです。その広場には、競技者がトレーニングするような競技志向のコースもあれば、そこから足を延せばハイキングできるようなゆるいコースもあって、途中でコーヒーブレイクができるような小屋なんかもあります。それにウェーブやバンクがある、スキー場にあるスノーパークのようなところがあって、それもクロスカントリースキーで楽しめるんですよ。自分の中ではまさに「これだ!」と思ってたんです。まさしく今、市内のコーチ陣と話をしているのは、昨日行った長峰スポーツ公園をヒーヒト・マーにしよう!と。クロカンのコースもあり、小学生たちが競技だけじゃなく、もっと楽しめるようにしたいんです。小さいころってつらいことはやりたくないじゃないですか。でも楽しい下りがあるからがんばって登るってなるし、ウェーブとかバンクとか、不安定なところでも遊びながら滑ることでどんどんうまくなっていくんですよ。
── まさに服部さんが、田んぼの段々を滑り下りて楽しいと思ったのと同じですね。
服部: 本当にそうですね。そういう楽しみ方って大事ですし、もっと伝えていきたいんです。圧雪されたコースを滑るのももちろん楽しいんですが、昨日少しだけコースを外れて歩いてみてもらってわかるように、自分で自由に好きなところに行ける、夏だったら行けないところも雪さえつながっていればどこでも好きなところまで行けるんですよね。そういう楽しみ方も、ここ飯山だったらできると思うんです。
前日訪れた長峰スポーツ公園の敷地内の段差。こういう体験ができるのもクロカンの魅力。この場所が近い将来ヒーヒト・マーになる
インタビューを通して発見したのは「楽しい」というモチベーションの力だ。ろうそく屋からスキーワックスメーカーとなった穀藤商店の藤吉氏も正義氏も、市川達譲氏から教わったスキーが楽しかったからに違いない。いくらご近所の住職であり体育教師でもあった市川氏からの依頼とはいえ、そこまでできたのは自分たちが楽しいと思うスキーをもっと楽しくしたいというモチベーションに他ならないのではないだろうか。正義氏の往時の写真からもその楽しさは伝わってくるのだ。その想いは、形こそ違えど正秋さんに受け継がれ、飯山をはじめとする奥信濃の地をクロスカントリーの聖地にしたいという夢につながっている。
いずれも服部家のアルバムにあった「スキーの妙技」と題された昭和初期の写真。上の写真では雪で作ったキッカー(ジャンプ台)を使ってバックフリップしている。どんな時代でもトリックにチャレンジする精神は共通なのかもしれない。当時の人たちにとってもスキーは「楽しい」ものだったに違いない
この取材の前に、個人的に日本のスキーワックスの歴史を調べようと試みたのだが、スキーの板やブーツ、ビンディングなどの歴史についての資料はいくつかあるものの、ワックスに関する資料は発見できなかった。今回、服部さんによって偶然発見(発掘?)されたかつてのKOKUTO WAXの容器や印刷物の数々は、現段階では正確な年代こそ判別できないものの、歴史的に見てかなり貴重なものであることがわかる。
また飯山という寺町だったからこそ生まれたスキー産業の歴史における偶然と必然。そこには壮大な歴史ロマンすら感じてしまう。当初軍事目的での研究対象であったスキーが「積雪地の実用に資するべし」と民間へ普及し、「スキーこそ雪国にとっての福音である」と人々を熱狂させたという。その熱狂に支えられた用具製造業、フィールドとしての観光産業、生活・移動手段としての実用、すべてが現在につながっているのだ。
そしてこの熱狂の震源地である飯山とその一帯は、今なお日本スキー文化の聖地、スノーアクティビティの宝庫であることは間違いない。
今回の取材は、スキーの歴史や文化、将来の可能性を実感する貴重な体験となった。と同時に地球規模での気候変動や持続可能性についても思いを馳せずにはいられない。今シーズンは、雪が多いと言われているが、これが平年並みなのだそうだ。長い目で見ていくとやはり積雪量は減少傾向にある。積雪は雪国の人たちにとっては難儀な現象ではあるが、同時に恩恵でもある。雪解け水が田畑を潤し農作物を育て、観光産業や文化も育てる。
私たちが見たあの景色が失われてはならない。そして意欲のある若い人たちが思い描く雪国の未来、スノーカルチャーやコミュニティの未来が失われることはあってはならないのだから。
前編はコチラ
参考資料:飯山市発行「飯山スキー100年誌」、瓜生卓造著「スキー風土記」(日貿出版社)
(インタビュー聞き手:滝沢守生/写真・文:渡辺信吾/協力:信越自然郷アクティビティセンター)